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フェリス女学院の歩み

創設の頃のフェリス女学院

フェリス女学院の創設と二人の宣教師
フェリス女学院の創設者はキダー(Mary Eddy Kidder, 1834-1910)ですが、その経緯を語るためには、ヘボン(James Curtis Hepburn, 1815-1911)の働きにも遡らなければなりません。

ヘボンと妻クララの働き(1859‐70年)
アメリカ長老派教会(Presbyterian Church in the United States of America)から派遣されたヘボンは1859年10月に来日して神奈川に住まい、その後幕府から横浜居留地への移転を求められ、1862年12月居留地39番に転居します。宣教活動が許されないという状況の下で、医療、教育、そして辞書編纂の分野で瞠目すべき事績をあげました。

いま外務省が旅券の氏名表記に求めるヘボン式ローマ字は、ヘボンが来日8年後に完成させた日本で最初の和英・英和辞典である『和英語林集成』編纂の過程で工夫されました。また、妻クララ(Clara Leete Hepburn, 1818-1906)と共におこなった教育活動はヘボン塾の教育として知られ、そこから明治期の日本を担う優れた人材が巣立っています。

キダーの日本への出発(1869-70年)
1834年にアメリカ合衆国バーモント州に生まれたキダーは、外国宣教が自らの使命であることを20歳の頃に理解します。1869年アメリカ・オランダ改革派教会(Dutch Reformed Church in America)外国伝道局総主事J.M.フェリス(John Mason Ferris, 1825-1911)に日本宣教の意思を伝え、最初の婦人宣教師として日本に派遣されることになりました。

キダーのヘボン塾における教育活動(1870年)
1870年8月1日、アメリカ長老派教会の宣教師コーンズ(Edward Cornes, 1840-1870)の一家4人は、築地から乗船した蒸気船のボイラー爆発事故に遭遇、生後3か月の二男だけが奇跡的に生き残りました。ヘボンの妻クララは、一人残されたこの幼子を預かるため、ヘボン塾の生徒の教育をキダーに委ねました。

キダーのヘボン塾における教育活動開始(1870年9月21日)が、フェリス女学院の歴史的起源ですが、この頃すでにキダーは女子だけの教育を考えていました。

授業を開始してから、まだ二日しかたっていません。昨日は生徒は二人でしたが、今日は四人でした。(中略)今は少年、少女両方を教えていますが、女の子が十分に集まったら、男子はやめ、女子だけを教えるつもりです。
(1870年9月22日付ミッション本部フェリス宛書簡)

クララに学んでいた子供たちを引き継いでから1ヶ月後の書簡には、生徒数の着実な増加と、女子生徒数増加への期待が示されています。

現在私のクラスには、女生徒3名、男子生徒4名、計7名の生徒がおります。もっと女生徒が増えそうな見込みがあり、私はそれを強く望んでいます。生徒たちは学校生活を楽しんでいるようです。彼らはとても楽しそうで、決して休んだり遅刻したりすることはありません。皆利発で常に思いやりがあり、服装もこざっぱりしていて、勉強も一生懸命にし、私の教えることは一言も聞き洩らすまいとしています。国の多くの子供たちは彼らの礼儀正しさを見れば、きっと恥しくなって顔を赤らめることでしょう。
(1870年10月22日付ミッション本部フェリス宛書簡)

キダーのヘボン塾における女子教育の開始(1871年)
その一年後の書簡には、女子だけを教えるようにしたこと、女子生徒の数が顕著に増加したことが報告されています。

夏に男子生徒たちに、秋から女生徒だけを教えることになるから、あなた方は誰か他の先生を見つけるように、と予告しておきました。彼らは最初ひどく失望しましたが、皆他の先生を見つけ、うまくやっています。男子生徒と共に教えてきた女性とは、熱心に学校に戻ってきて、素晴らしい進歩をみせています。現在私には12人の女生徒がおり、その中の7名は14歳から17歳で、残りの5名は8歳から10歳ですが、とても小柄なので、アメリカの5,6歳の子供のようにみえます。この少女たちは皆利発で理解が早く、アルファベットの大文字、小文字を覚えるのに、3日以上かかったものはおらず、一人は第1日目に全部覚えてしまいました。
(1871年10月21日付ミッション本部フェリス宛書簡)

キダーのヘボン塾からの独立(1871‐72年)
1871年10月ヘボンは妻クララを伴って上海に出発、翌1872年7月横浜に戻りますが、留守の間、キダーは以前からヘボン邸で開かれていた日曜学校も引き受けています。その間、キダーの許には、東京あるいは地方の有力者から、学校開設の協力依頼が頻繁にもたらされるようになり、誘いに心を動かされたこともあります。なぜならヘボン邸のスペースは教室としては狭く、専用の校舎を強く望んでいたからです。キダーはミッション本部のフェリスに対して、校舎の必要性を切々として訴えています。

もし私が(誘いに応じないで…引用者)当地に留まるなら、近いうちに校舎を持たなければなりません。今、校舎が必要なのです。現在のところでは、効果的に教えることはできません。
(1871年10月21日付ミッション本部フェリス宛書簡)

熟慮を経て1872年に至りキダーは横浜に踏みとどまり、横浜の地で教育活動をする決断をしました。

私は当地の私の仕事を離れるという考えを全く捨てました。ブラウン博士(キダーと同じアメリカ改革派教会の宣教師…引用者)と私は数ヶ月前江戸に行って、そこでの私の将来の見通しを検討してみましたが、二人とも、なにも得るものはなく、助手を必要とすることによって多くが失われるかもしれないという結論に達しました。
(1872年5月23日付ミッション本部フェリス宛書簡)

キダーの野毛山の学校(1872-73年)
1872年7月、ヘボン夫妻が上海から帰国して医療活動を再開すると、キダーの教育活動はそれまでにも増して制約されるようになりました。それだけでなく、ヘボンの個人的好意に頼るには、キダーの学校は大きくなりすぎました。一計を案じてキダーは、妻の教育を委託されている旧知の権令大江卓に施設の斡旋を依頼しました。大江卓はキダーの理解者として支援を惜しまず、野毛山に日本家屋の官舎を提供してくれました。

私は彼(大江卓…引用者)をよく知っており、彼の妻は私の最も興味深い生徒の一人なのです。県令は、校舎がないからという理由で学校を中止してはならない、自分が責任をもって校舎探しを引き受けよう、と答えてくれました。私は彼と一緒にいくつかを見に行きましたが、私たちのいずれも気に入らず、彼は私に自分の家の近くの「野毛山」に来てほしいと言いました。「野毛山」は当地の政府の高官が皆住んでいるこの町の一地域です。
(同上)

キダーの新校舎建設候補地(1872-73年)
授業を開始しましたが、野毛山の官舎は教育施設として満足すべきものではありませんでした。本格的な教育施設の建設がキダーの願いでした。その願いに応えるため、米国領事は、校地に相応しい1000坪余りの土地借用の取り次ぎを神奈川県に依頼しました。これを受けて大江卓は1872年12月17日(明治5年11月17日)付で、大蔵大輔井上馨に土地の貸し渡しを上申します。翌1873年1月10日大蔵大輔井上馨は許可しましたが、その土地に警察署を置きたいという日本側の事情が優先されて成約には至りませんでした。

この1000坪余りの土地の所在地を史料を以て直接確認できませんが、後に山手警察署が設置される「政府の御用地」と推測できます。現在の山手本通りの汐汲坂交差点を起点として、代官坂方向と元街小学校方向の二つの道、そして山手60番との境界によって画される土地です。

キダーの山手178番借り受け(1871-74年)
フェリス女学院の現在の校地=山手178番の入手の経緯は以下の通りです。この土地は元来「米国官事取扱地所」でしたから、早くから土地の貸与の交渉をしていたアメリカ人がいたとしても不思議はありません。横浜共立学園の創設に関わったプライン(Mary Putnam Pruyn, 1820-1885)は、1871年8月3日付で神奈川県知事宛に教育目的のため貸与して欲しい旨の願を提出しています。1871年12月20日(明治4年11月9日)外務卿副島種臣は米国デ・ロング公使宛に地所の使用を認める旨回答しましたが、公使は海軍の病院建設を理由に断っています。

その数年後にキダーは178番の土地借り受けに動きます。1874年6月1日付で178番の返還の申し入れが米国公使からなされ、併せてキダーへの貸与が申請されました。10月18日内務卿伊藤博文は外務卿寺島宗則宛に貸与の許可を出しています。

キダーは178番の土地をミッション本部に次のように報告しています。

敷地は美しい場所にあり、ここの湾や町中から見えますが、とても奥まった所にあって、女学校の敷地に横浜中で最も適しています。プライン夫人が当地にいらした時、手に入れようとなさったのですが、海軍病院の建設用地として所有していた合衆国政府が手離さなかったために、うまくいかなかったのです。
(1874年11月8日付ミッション本部フェリス宛書簡)

山手178番に新校舎竣工(1874-75年)
キダーは、1875年5月21日野毛山の学校を閉じ、6月1日に新校舎の開校式をおこなっています。校舎建設費用はおよそ6000ドルでしたが、その費用はミッション本部を始めとするアメリカ改革派教会関係者から提供されました。

新校舎竣工と校名の由来(1875年)
山手178番に建てられたキダーの学校は、フェリス・セミナリー(Ferris Seminary)と名付けられました。校名の「フェリス」は、父子二代にわたる改革派教会外国伝道局総主事の名に由来します。I.フェリス(Isaac Ferris, 1798-1873)は開国と同時に日本に優れた宣教師を派遣しました。その子息のJ.M.フェリスはキダーを日本に派遣し、キダーの教育活動に物心両面から支えただけでなく、日本からの留学生を多数受け入れています。

合衆国におけるfemale seminaryの展開とフェリス・セミナリー
キダーがフェリス・セミナリーで実現しようとした教育は、アメリカ合衆国のメアリー・ライオン(Mary Lyon, 1797-1849)が構想した女子教育に感化されています。ライオンはマサチューセッツ州にある合衆国で最も歴史のある女子大マウント・ホリオーク・カレッジ(Mount Holyoke College)の創設者です。この女子大は創設当時マウント・ホリオーク・フィーメイル・セミナリー(Mount Holyoke Female Seminary)と呼ばれ、19世紀にアメリカ合衆国で活発になった女学校(female seminary)発展運動の中心的役割を果しています。女子中高等教育機関であるこのセミナリーは、宗教と道徳教育を重視し、次いで家政教育、教員養成、その他の知的・情操的訓練を重んじました。

マウント・ホリオーク・フィーメイル・セミナリーの場合、教育目標は、1.敬虔にして教養高い家庭婦人の養成、2.女性教員の養成、3.伝道に従事する婦人の養成、というものでしたが、このような教育目標を掲げるセミナリーが19世紀の合衆国に次々と創設されました。多くの場合、創設のために援助を惜しまなかった人の名をセミナリーに冠しています。合衆国ではセミナリーは19世紀後半から漸次カレッジに移行しますが、このようなセミナリーの歴史を背景にフェリス・セミナリーが誕生しました。

フェリス・セミナリー創設時の教育(1875年)
キダーのフェリス・セミナリーについて特筆すべきは、それまでのアメリカ人宣教師による英語の授業という私塾的性格を脱ぎ捨て、日本における女子普通教育機関として、日本人のための学校として定着させることが意識された点です。

午前中は、アメリカ人教師の英語による授業が、午後は、日本人教師の日本語による授業がおこなわれました。生徒たちは英語で、哲学、生理学、歴史学、植物学、数学、地理学、語学、文学等の科目を、そして音楽、裁縫、体操等の技芸も学びました。日本語で、習字をはじめ、『日本外史』や『皇朝史略』『貞女鏡』などの和漢書について学びました。

寄宿学校では日本文化が尊重され、建物の外観は洋風でしたが、部屋は畳敷きで、寝具、衣服、食物、座臥の動作などすべて日本式でした。キダーは必要な西欧的改良を試みつつも、生徒たちが日本社会から浮き上がった存在とならないように配慮しています。

キダーの退任(1879-81年)
来日10年目を迎えた1879年5月、キダーは休暇を認められ、夫のミラー(Edward Rothesay Miller, 1843-1915 )と共に合衆国に帰国、1881年4月に横浜に帰着します。しかし、その年のうちにフェリス・セミナリーを退き、夫のミラーと地方伝道の道を歩むことになります。

キダーがフェリス・セミナリーを離れた理由は必ずしも詳らかではありませんが、女子教育を通じてキリスト教の伝道のために費やしたキダーの10年間、これがフェリス女学院の歴史のすべてに息づいています。主のみ名によりキダーが創設したフェリス女学院の建学の精神が、「キリスト教の信仰に基づく女子教育」とされる所以です。

J.C.ヘボン

J.C.ヘボン(James Curtis Hepburn, 1815-1911)
※明治学院歴史資料館所蔵

M.E.キダー

M.E.キダー(Mary Eddy Kidder, 1834-1910)

居留地39番のヘボン邸

居留地39番のヘボン邸

C.L.ヘボン

C.L.ヘボン(Clara Leete Hepburn, 1818-1906)
※明治学院歴史資料館所蔵

J.M.フェリス

J.M.フェリス(John Mason Ferris, 1825-1911)

大江卓

大江卓(1847-1921)

新校舎建設候補地(日本政府御用地)

新校舎建設候補地(日本政府御用地)

プライン

M.P.プライン(Mary Putnam Pruyn, 1820-1885)
※横浜共立学園所蔵

山手178番

新校舎建設候補地山手178番

新校舎

新校舎

I.フェリス

I.フェリス(Isaac Ferris, 1798-1873)

E.R.ミラー

E.R.ミラー(Edward Rothesay Miller, 1843-1915)

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