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フェリスとキリスト教

フェリスとキリスト教 女性宣教師の歴史を辿る

 2017年は、プロテスタント教会のルーツであるルターの宗教改革からちょうど500年の節目にあたります。
それから約350年の時を経て、日本に初めてプロテスタントを伝えたのは、アメリカの宣教師でした。
ほぼ時を同じくして日本にプロテスタントを伝道するために来日した宣教師によって創立されたフェリス女学院は、宣教師の働きによってその礎が築かれ、幾多の困難を乗り越えて現在に至っています。
宗教改革500年の記念すべき年にあたり、創立当初のフェリス女学院に焦点をあててその歴史を辿ります。

 アメリカ改革派教会の宣教師であるメアリー・E・キダーによって、日本で最初の近代的女子教育機関として1870(明治3)年に始まったフェリス女学院は、2020年に創立150周年を迎えます。
 創立当初は、ヘボン施療所に数名の少女を集め、英語を教えていたというキダー。キダーは自身が女学生の頃から外国伝道の志を抱いており、その後教育者として働いていましたが、1869(明治2)年にキリスト教伝道という大きな使命をもって来日しました。キダーを日本の宣教と女子教育を創始するために彼女を推薦したブラウン博士は、キリスト教は禁じられ、さらに女子教育には関心さえも向けられなかった現実を見て、日本における女子教育の必要性をこう説いています。
 「女子教育は日本がキリスト教国の仲間入りをする前にやりとげなければなりません。そしてその仕事は今すぐ始めるべきです」
 同じ志を持ったキダーは、アメリカ改革派教会から最初の婦人宣教師として、当時は遠い異国の地であった日本に派遣され、その後フェリスの歩みの礎を作っていきます。
 もともと、横浜にはアメリカ長老派教会から派遣されたヘボン夫妻が住んでいました。夫妻は宣教活動が許されないという状況の下、医療、教育、そして辞書編纂の分野で実績を上げています。現在、外務省が旅券の氏名表記に求めるヘボン式ローマ字は、ヘボンが来日8年後に完成させた日本で最初の和英・英和辞典である『和英語林集成』編纂の過程で工夫されたものです。夫妻が行っていた教育活動であるヘボン塾を受け継ぐ形で、キダーは教育活動を開始。この1870(明治3)年がフェリス女学院の歴史的起源となっています。
 キダーがヘボン塾を受け継いだ当初から女子のみの教育を行いたいという希望を持っていたことが、フェリス宛の書簡に記されています。
 「授業を開始してから、まだ2日しかたっていません。昨日は生徒は2人でしたが、今日は4人でした。(中略)今は少年、少女両方を教えていますが、女の子が十分に集まったら、男子はやめ、女子だけを教えるつもりです」。
 その1年後には女子だけを教えるようになり、生徒数も増加。この頃から賛美歌の授業も始まり、生徒にも人気だったといいます。
 また、キダーのもとには、東京や地方の有力者から、学校開設の協力依頼が頻繁にもたらされるようになります。ヘボン邸のスペースは教室としては手狭になってきており、キダーも心を動かされたこともありました。しかし、検討に検討を重ねた結果、横浜に踏みとどまり、横浜の地で教育活動をする決断をします。
 その後、アメリカ海軍病院の建設予定地だった現在中学校・高等学校のある山手178番地に土地を借り受け、1874(明治7)年末から工事を始め、1875(明治8)年に新校舎が竣工。「フェリス・セミナリー」と名付けました。フェリスは、父子二代にわたる改革派教会外国伝道局総主事の名に由来します。I・フェリスは開国と同時に日本に優れた宣教師を派遣し、その子息のジョン・M・フェリスはキダーを日本に派遣し、キダーの教育活動に物心両面から支えただけでなく、日本からの留学生を多数受け入れています。
 多くの困難を乗り越えてフェリスの礎を築き、女子教育を通じてキリスト教を伝道し、欧米の先進的な教育の取り組みを実践して、自ら考え行動する女性を育てたキダーの跡を継いだのが、その後、41年もの長きにわたってフェリスに生涯を捧げた宣教師ユージン・S・ブースです。1881(明治14)年に31歳で校長に就任しました。当時、女子校で男性が校長になることは珍しかったと言われています。
 ブース校長は、生徒の健康維持のため、1882(明治15)年に医師による生徒の健康診断を制度化しました。
日本の公立学校に学校医が置かれるようになったのは1898(明治31)年からなので、その15年以上も前から健康管理に注意を払っていました。
 また、清潔で安全な飲料水を確保するため、風の力で井戸水を汲み上げる風車を1888(明治21)年に設置。さらに教育の充実という観点から、講演会も継続的に開催。学外者の傍聴も認めたために、新聞記事などで評判になり、フェリス女学院が横浜において一層の存在感を示す重要なきっかけになったと言われています。
 ブース校長退任後は、1922(大正11)年からジェニー・M・カイパーが校長に就任。カイパーは、アメリカ改革派教会から1905(明治38)年日本に派遣され、フェリス女学院で生徒を指導し、ブース校長が帰国中の1916(大正5)年と17(大正6)年に校長代理を務めていた人物です。
 就任の翌年、1923(大正12)年9月、相模湾沖を震源とする関東大震災が起こりました。被害は神奈川と東京を中心に広範囲に及び、家屋の倒壊や火災によって、死者10万5千人、被災者は190万人にも及びました。
 カイパー校長は、その日卒業生を校門まで見送り、校長室に戻った瞬間に大きな揺れに襲われました。校舎は倒壊、彼女はその下敷きになり殉職。カイパー校長亡き後、1928年に新校舎と、カイパー校長を記念するカイパー記念講堂が作られ、1929年には、記念講堂の正面に、羊を抱えた主イエスを描いたステンドグラスが組み込まれました。
 このときの寄贈されたステンドグラスは、その後2002(平成14)年に建て直された新しいカイパー記念講堂に引き続き据え付けられ、80年以上にわたってフェリス生と生活を共にしています。このステンドグラスには、英文で「彼女は他人のために(For Others)命を献げました」と刻まれています。フェリス女学院の教育理念であるFor Othersというフレーズは、誰が言い出すともなく自然発生的に学内に定着したと考えられますが、ステンドグラスにFor Othersが記されたことが、定着の一つの重要な契機になったと推測できるものです。
 フェリスの創立時から比べると、世の中は大きく変わりましたが、フェリス女学院の建学の精神「キリスト教信仰に基づく女子教育」、教育理念である「For Others」のもと、中学校・高等学校では教育の3つの柱「キリスト教信仰」「学問の尊重」「まことの自由の追求」、大学では「新しい時代を切り拓く女性の育成」が、創立から150年近くの時を経て、幾多の困難を乗り越えて受け継がれています。

「For Others 」の精神が生まれるまで

■創立期
1970(明治3)年 ◇ メアリー・E・キダー、居留地39番のヘボン施療所で英語の授業を始める
  アメリカ改革派教会から派遣されたキダーは日本での布教と女子教育を志し、来日。クララ・ヘボンのクラスを引き継ぐ。これがフェリス女学院の始まりである。
1975(明治8)年 山手178番に校舎・寄宿舎竣工校名をフェリス・セミナリーとする
  「フェリス」とは、学院に対して物心両面にわたり援助を惜しまなかったアメリカ改革派教会外国伝道局総主事父子の姓。
総主事に敬意を表して「フェリス・セミナリー」と命名した。
■発展期
1881(明治14)年 ユージン・S・ブース第2代校長就任
  31歳で就任したブースは、以来41年間にわたり校長を務め、就任時20名足らずの生徒を退任時600名までにした。「フェリスの育ての親」と言われる。
1882(明治15)年 学則を制定し全国に配布する
1888(明治21)年 地下水を汲み上げる風車完成
1889(明治22)年 校名を「フエリス和英女学校」とする
1899(明治32)年 「私立学校令」により認可
1907(明治40)年 校旗作製
教師、卒業生及び在校生の会「白菊会」結成
■震災、そして復興
1922(大正11)年 ジェニー・M・カイパー第3代校長就任
1907(明治40)年 関東大地震により校舎倒壊焼失、カイパー校長殉職
  震災後オルトマンス博士が臨時校長として就任。仮設校舎が建設され、翌年の1月より授業が再開された。

メアリー・E .キダー(1834ー1910)

メアリー・E .キダー(1834ー1910)

関東大震災後、焼跡に残されていた門柱の一部。
山手178番地を示すNo.178の文字が刻まれている。

カイパー記念講堂のステンドグラス

カイパー記念講堂のステンドグラス

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