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フェリス女学院の歩み

学校の発展

学校の発展…ブース校長時代
 1881(明治14)年、ミラー夫人にかわって就任した31歳の青年宣教師ユージン・S. ブースは、以来41年間にわたり校長を務め、就任時20名足らずの生徒を、退任時600名までにした「フェリスの育ての親」です。彼は、まず学則の整備に着手、1882年1月には明文化し全国に配布しました。これにより、卒業規定が整い、1882年7月第1回の卒業生となったのが、『小公子』の口語訳で有名な若松賤子です。
 また、彼は生徒の健康に留意し、いちはやく校医をおき健康診断を制度化するとともに、「デルサルト体操」を導入し生徒たちに早朝体操を義務付けました。そして洗面や入浴用の豊富な水を供給するため、ポンプで井戸水を汲み上げる風車も学校に備え付けました。

 この時期、1888年に就任した音楽教師ジュリア・A. モールトンが「トニック・ソル=ファ」方式を取り入れ、音楽教育の充実も図られました。1889(明治22)年には、ヴァン・スカイック・ホールも完成、礼拝や学校行事のみならず、ゲーテー座と並ぶ山手地区の文化センターとして多くの人々に利用されるようになりました。こうして、寄宿学校としての設備・内容ともに充実したフェリスは、緑の丘の上に建つ「赤い校舎と風車の学校」として知られるようになったのです。

ユージン・S.ブース

ユージン・S.ブース(Eugene Samuel Booth, 1850-1931)

手刷りの規則書

手刷りの規則書

若松賤子と『小公女』

若松賤子と『小公女』

トニック・ソル=ファの教科書

トニック・ソル=ファの教科書

校舎と風車※横浜開港資料館所蔵

校舎と風車
※横浜開港資料館所蔵

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