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フェリス女学院の歩み

戦時体制から敗戦、復興へ

校名の変更(1941年)
 1935(昭和10)年、シェーファー校長はアメリカ改革派教会伝道局の総主事に任命されて帰米、ヘンリー・V.E. ステゲマン校長が就任しました。この交替の時期を境にフェリスなどミッションスクールへの風当たりが強くなってきたため、ミッション経営の社団法人から、日本人を含む理事会が経営する財団法人に切り替え、これまでミッションの財産であった土地や建物が多額の基金とともに法人に寄贈されました。しかし、緊迫する時局のなかで「日本に建てられている学校は、日本人によって教育指導されるべき」と言う理由でステゲマン校長は辞表を提出、1940(昭和15)年、明治学院神学部教授の都留仙次が最初の日本人校長に選ばれました。また、翌年校名も「横浜山手女学院」と日本式に変更、フェリスの宗教教育を支えた宣教師たちも日米開戦前には全員帰米する事態となりました。

戦時下の体制
 学友会は報国団に改編、金属供出、御真影の奉戴、英語授業の縮小など次々と戦時協力体制が打ち出されていきました。学徒勤労動員も1942(昭和17)年5月に出動したのを皮切りに、1943(昭和18)年からは3 年生以上の生徒が交代で長津田や森永食糧工場、帝国通信などにたびたび出動するようになりました。
 1944(昭和19)年8月には、校舎までも海軍に貸与され、授業は寄宿舎で細々と続ける状態となりました。

敗戦・占領
 1945(昭和20)年8月15日終戦を迎え、日本海軍は本校舎から直ちにひきあげましたが、9月14日進駐軍により再び接収されました。10月1日には授業を再開しましたが、寄宿舎の仮校舎は狭く全学年そろっての授業ができないため、進駐軍との交渉の結果、本校舎の地階のみ教室として使用することが許されました。
 その後、高等部も復活し生徒数も急速にもとに戻り、都留校長の進駐軍への熱心な交渉の結果、翌1946(昭和21)年5月18日、本校舎が全面返還されました。
 この早期返還の陰には、全米の教会を代表して戦後すぐに来日し、教会をとおして日本の復興を支えたシェーファー元校長の尽力があったといわれています。2年9 ヶ月間、日本海軍への貸与や進駐軍の接収を受けた校舎は、痛ましいほどの損傷を受け、机や椅子などの備品にも事欠く状況でした。また食糧事情も悪く、米の配給も十分に行われなかったため、生徒たちの中には昼食の弁当を持参できない者も多く、しばらく間は午前の授業で帰宅していました。しかし、1946年10月には、C.ジャネット・オルトマンスが戦後最初の宣教師として帰任、翌年4月には、ヘレン・R.ザンダーが自分の荷物を減らして、ミッションから託されたタイプライター10台とローラースケートをたずさえて帰任し、フェリスにも以前のような活気が甦ってきました。
 荒れ果てた校舎の復旧のため教職員、同窓生、校外有志の方々によって「フェリス復興後援会」が組織され、募金活動を行い、学校設備の充実が図られました。同窓会では映画会、ヴァイオリンリサイタル、バザーなどを開催し、短期間のうちに目標の募金額を達成し、校舎の整備が行われました。

1940年9月8日「神奈川読売新聞」

1940年9月8日「神奈川読売新聞」

1941年3月10日「基督教新聞」

1941年3月10日「基督教新聞」

もんぺ姿

もんぺ姿

山手37番地にあった寄宿舎

山手37番地にあった寄宿舎

ヘレン・R.ザンダーのタイプの授業

ヘレン・R.ザンダーの
タイプの授業

1948年5月復興バザーのチケット

1948年5月復興バザーのチケット

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