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山手178番

 1870(明治3)年9月21日に居留地39番ヘボン施療所で授業を開始したキダーは、恒久的な校地の取得を計画し、苦労の末1874年11月にアメリカ海軍の病院建築予定地であった山手178番の見晴らしのよい1153坪の土地を借り受けることができました。キダーはこの土地についてフェリス博士宛ての書簡(1874年11月8日付け)の中で「敷地は美しい場所にあり、ここの湾や町中から見え」、「横浜中で最も適した場所」であることを報告しています。また2代目校長ブースも「港を見下ろし横浜の街が広がる谷間全体を見渡せる“ブラフ(山手)”と言われる外国人居留地の一角で、これより美しい場所はほかにはほとんどない」、「横浜港に船が錨をおろしたときに旅行者が最初に目をひかれるもののひとつは”ブラフ”の尾根の中央部分を覆うフェリス・セミナリーの建物である」(「フェリス・セミナリーの歴史概略」)と明言しています。
 そしてこの横浜の外国人居留地の山手178番にフェリスが建てられたことがフェリスを今日のフェリスに築き上げたひとつの要因であると言っても過言ではないでしょう。1905年の「私立ふゑりす和英女学校一覧」の「学校位置」の項目には「若し地理が人を教育するものならば、世界の船舶の日々出入する港湾を瞰み、自国の美景を眺むる此位置は世界大の精神と愛国の心情を涵養するに於て大効なくんばあらずと信ず」と強調されている通り、ここで学ぶ生徒はいつでも横浜の市中、そこに往来する数多くの人々、港を出入りする船舶を見ながら学生生活を送ってきました。横浜から乗船する前に多くの外国人がフェリスを訪れ講演をする機会が数多くありました。帰国される先生を全校生徒で桟橋までお見送りに行くことができたのもこの地に学校があったおかげです。
 キダーが外国伝道の第一歩をしるした横浜の港にはその後多くの宣教師がやって来て、また帰国する時も横浜から船で海の向こうの国へ帰って行ったのです。フェリスにはいつも海からの風が吹き、生徒たちの前には海の向こうの大きな自由な世界が広がっていたのです。

震災から10年を経て、横浜の復興が分かる航空写真(1933年 フェリスの校舎中央を2方向から撮影)

震災から10年を経て、横浜の復興が分かる航空写真
(1933年 フェリスの校舎中央を2方向から撮影)

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