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風車の学校フェリス

 明治中期にフェリスに通った相馬黒光は、フェリスについて「その風車、タンク、校舎の壁、ことごとく赤一色に塗り込められて、ただ窓枠だけが濃いグリーンであった」と書いています(相馬黒光『黙移』)。風車は第二代のユージン・ブース校長が、機材をニューヨークの教会本部に依頼して取り寄せ、1888年3月に完成しました。西部開拓などで揚水に使用されたアメリカ型の多翼(羽根)式、方向舵を備えたものです。
 しかし、黒光がいうように風車も校舎もすべて赤かったのでしょうか。
 ①の写真は明治期のフェリスを写したものとして知られています。確かに校舎は赤く見えますが、風車の本体、羽根や尾翼の色はよく確認できません。しかし、そもそもこれは現在のようなカラー写真ではなく白黒写真に彩色されたもので、これで色を判定することは意味がありません。
 ②の写真は、横浜の郊外都筑郡都田村の「異人館」に立つ風車です。居留地堀川沿いで鉄工所を営んでいたデンマーク人クリスチャン・グランが、1900年9月の台風で倒壊したフェリスの風車を譲り受け修理して自分の家にすえつけたものです(ウィリアム・マール「風車のある学校と私の母」『あゆみ』第17号)。娘エリサベスはフェリスに通い、後にドイツ人貿易商の子息と結婚しました。その子息マール氏は「風車のおかげで、田舎の生活には潤いがあった」と回想しています。風車の羽根が赤いようには見えません。
 グランの家は現在の横浜市立都田小学校のすぐ上にありました。③は1926年ごろの写真で、校庭の上方にグラン家の風車が写っています(『横浜をめぐる7つの物語』フェリスブックス12)。②と③が同じものかどうか分かりませんが、いずれにせよ風車の羽根に色が塗られていたようには見えません。そもそも軽快な回転を必要とする風車の多翼にわざわざ赤い塗料を塗ったのでしょうか。
 こうしてみるともともと山手にあったフェリスの風車が赤かったかどうか疑問です。しばしば明治期のフェリスを「赤い風車の学校」と呼ぶことがありますが、赤いが形容するのは風車ではなく学校とするのが妥当でしょう。校舎の色とあわせていつの間にか風車まで赤いとされてきた可能性があります。
 フェリスのシンボル風車の色でさえ、真実を確かめることは容易ではありません。フェリスの歴史にはこうした謎が一杯残っていて、これらを明らかにしていくためには多くの資料を必要としています。現在進めている150年史編纂事業に同窓生各位にもぜひお力添えをお願いする次第です。

国際交流学部教授 大西 比呂志

①フェリス女学校(明治初期)(横浜開港資料館所蔵)

①フェリス女学校(明治初期)
(横浜開港資料館所蔵)

② グラン一家と風車

② グラン一家と風車

③ 都田小学校とグラン家の風車

③ 都田小学校とグラン家の風車

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