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フェリスの音楽教育

これまでとこれから

 フェリス女学院の長い歴史の中で、キリスト教と共にその伝統を形作ってきたうちのひとつが音楽教育です。その伝統はどのようにして培われてきたのか、本学の歴史とともに音楽教育の変遷を振り返ります。

音楽教育の歴史

1871年 メアリー・E・キダーが生徒に賛美歌を教えたことが記録に残る
1889年 ジュリア・A・モールトンが音楽の教師に着任
1941年 三宅洋一郎が音楽の教師に着任
1947年 専門学校音楽科誕生
1950年 創立80周年 校歌制定
1951年 短期大学音楽科設置
1989年 大学音楽学部設置
1998年 大学院音楽研究科修士課程設置

 「フヱリス女学校の長所強点は何処にあるかと見渡せば、どうしても英語と音楽とである」。1902年当時、フエリス和英女学校の教頭に赴任した岩佐琢蔵がしたためた手記の一節です。

 1870年の開校から30年ほどでフェリスの教育の特徴には、英語と並んで音楽が記されていました。宣教師メアリー・E・キダーによってはじめられたフェリスにとって、キリスト教と密接に関係のある西洋音楽は創立期から欠かせないものであり、長い歴史を経た現在までも「フェリスの音楽」は長く、強く根づいています。

 1875年の校舎完成時にはオルガンやピアノを揃えていたフェリスですが、その中で音楽教育に転機をもたらしたのがジュリア・A・モールトンの存在です。モールトンが着任したのは1889年。「トニック・ソルファ」という音楽教育システム(※1)を取り入れたことで、フェリスの音楽教育の水準が著しく向上しました。

 モールトンが着任した前年、フェリスは校舎を拡充。300の座席を有する講堂「ヴァン・スカイック・ホール」も建設されました。学内の礼拝や講演会、音楽会などの行事だけでなく、山手居留地に住む外国人の文化活動の拠点としても利用され、音楽を通した地域の方々との交流の場となりました。

 その後、日本は戦争を迎えることになりますが、その中でフェリスの音楽教育のさらなる発展の礎を築いたのが三宅洋一郎です。1941年に音楽教師に着任した三宅は、戦時中で音楽の授業数を満足に確保できない中でも「課外音楽」という名で音楽の授業を行っていました。希望する受講生の数も多く、三宅以外の講師も招いて授業の充実を図ったといいます。

 しかし世の中は次第に戦時色が強まり、三宅が着任した年の12月には太平洋戦争の開戦に至りました。1942年には勤労動員が始まり、1944年には校舎も海軍に接収されるという中で、フェリスにあった楽器は各教員の自宅に移すことを余儀なくされます。グランドピアノは三宅の自宅に持ち込まれ、そこで希望者には授業も行われました。細々とではありますが、戦時中という厳しい環境の中でも音楽教育は生き続けたのです。

 この経験は三宅をはじめ学内関係者に「戦争で荒れ果てた人たちの心に美しさや温かさをもたらすものは音楽しかない」という思いを強く感じさせることとなり、戦後の教育改革が進む中、1947年、英文科・家政科・聖書科と共に、専門学校音楽科が誕生します。

 当時第一回生として入学した学生はたった7名でしたが、講師には三宅のほかに、作曲家の團伊玖磨やピアニストの大島正泰、音楽評論家の寺西春雄、声楽家の藤井典明が名を連ねていました。

 専門学校ができた後も、中学・高校での音楽教育は変わることなく、明治期から続いている全校生徒による合唱や、器楽演奏を通して高度な音楽教育が行われ、いつも音楽が校内に流れてきました。

 そして1950年は、フェリスにとって重要な年となります。創立80周年を迎え、校名も「横浜山手女学院」から再び「フェリス女学院」に戻ることが決定した際、現在まで歌い継がれている校歌も制定されました。作詞は当時中高の国語科の教諭だった英康子、作曲は音楽科の助教授だった團伊玖磨。

 さらに1989年には短期大学音楽科の発展改組として4年制の音楽学部を設置、1998年には大学院音楽研究科修士課程も設置され、現在に至ります。時代によって変遷や盛衰はありましたが、賛美歌と共に音楽教育を重要なものとして発展させ続けてきたフェリス。多くの教師や先輩方の努力や愛情によって、現在の「フェリスの音楽教育」は築き上げられているのです。

※1 音符や五線譜を使わない移動ド唱法。指導者の右手で音の高低、左手でその長さ(リズム)を表し指導する方法。

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