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第4回 フェリス女学院のキリスト教教育とFor Others

 キリスト教の信仰に基づく女子教育を建学の精神に掲げるフェリス女学院に、教育理念として定着しているFor Others。そのFor Othersとフェリス女学院のキリスト教教育について、大塩武学院長、廣石望大学宗教主任、野田美由紀中学校・高等学校宗教主事に語り合っていただきました。(2012年12月)

大塩 For Othersは誰言い出すともなく学内に浸透して、1930年代には定着したと考えられます。とりわけ1923年の関東大震災で殉職したカイパー校長を記念するため、1930年に寄贈されたステンドグラスに、「自らの生命を人のために(for others)捧げた」と記されていたことは、For Othersが教育理念として定着するひとつの重要な契機になりました。ところが、1953年学院長に就任した山永武雄先生は、For Others を語るときには、『フィリピの信徒への手紙』2章4節の「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」という聖句をいつも引用したので、For Othersがそこに由来すると理解されるようになりました。しかし、For Othersというフレーズがその聖句の英語訳にあるわけでもなく、For Othersが備えているキリスト教の精神を適切に言い表すのは事実としても、その聖句をFor Othersの典拠とするのは無理ではないでしょうか。
 それでは、誰言い出すともなくフェリスに定着したフレーズがほかならぬFor Othersであったのは何故なのか。この疑問に答えるためには、そもそもイエスであれば、For Others をどのように理解したのかという議論が必要です。
 イエスは「善きサマリア人」という譬話(新約聖書『ルカによる福音書』10章)を通じて、民族が同じで同じ神を信仰する者だけが隣人(仲間)であるという考えを乗り越え、「自分を必要としている人の隣人になること」を私たちに求め、仲間内の隣人愛を全人類的な助け合いを展望する隣人愛へと飛躍させています。
 イエスによって示された全人類的な助け合いを展望する隣人愛に基づいて、キリスト教は、この2000年、「自ら進んで、自分を必要としている人の隣人になること」を実践してきました。フェリス女学院の教育理念For Othersは、ほかならぬイエスが唱えた隣人愛に基づいています。
廣石 For Othersの出発点が、イエスがその生涯を通して伝えた「自分たちの限界を超える隣人愛」であるという考え方は、キリスト教が培ってきた歴史とも見事に一致しています。『フィリピの信徒への手紙』からの引用を人間同士の倫理的な教えと読むことも十分可能ですが、そのすぐ後に続くキリスト賛歌が興味深いのです。元々神と同じ身分をもつ存在だったキリストは、自分を空っぽにすることによって人間になって死んでいき、再び天の頂点にまで上げられる。そしてその動き全てが父なる神の栄光のために生じた、という歌です。そこから、For Othersは人間一般の倫理である以前に、神の存在原理であるというニュアンスが読み取れる。そうすると、For Othersの基礎は神によってすでに実現されているという、ある種の宗教的な認識に基づいて、私たちのスクールモットーを提示することができます。それは、そもそも「何故そんなことをしなければならないのか」あるいは「何故そんなことが可能なのか」という問いかけに答える助けにもなるのではないでしょうか。
野田 イエス・キリストが身を低くして僕の姿になり、最後まで従順に神に従い抜かれたということですね。それが人間にとっての単なる模範であるだけではなく、神様の出来事はすでに起こっていて、その神の行為によって救われたということが前提としてある。For Othersもそれがあって初めて、私たちが受け取り得るものになるのだと思います。

信仰との出会いを成長の糧に

大塩 それでは、フェリス女学院の教育理念For Othersをさらに深めるという観点から、この理念を学生・生徒に、あるいは社会に対して語りかけていくという可能性はいかがでしょうか?
廣石 神様や宗教というものに無縁な今の時代において、大きな存在が私のために自分を空っぽにしてくださった、ということをどうやって実感として掴むかがポイントになるのではないかと思います。
野田 そもそも神の高みというものをイメージできない生徒たちにとっては、その神が自らを貶めて最も低いものになられたことの大きさや、人間の罪というものを、ストレートに実感として受け取るのは本当に難しいことですね。
廣石 先ほど野田先生が、人間にとっての模範と神の行為による救いは違うとおっしゃったように、単なるお手本としての理解を超えたところにある、私の存在を支える他者という実感は、自らの経験によってこそアプローチできるのではないでしょうか。この人に出会ったから今の私がある、とか。キリスト教の成立にも似たようなことは間違いなくあって、イエスに出会うというのも、多分そういうことだった。つまり一人の人間が生きて、死んで去っていくだけでは終わらない、人格の重さ、輝きが見えた。だからこそ、学生たちに経験の中からそういうものを発見してもらえるような学校になれれば、と思っています。
大塩 発見というと、具体的には現実生活でどのようなことが考えられるでしょうか。
野田 例えば中高ではJ1から主の祈りを教えますが、罪について触れざるを得ません。中学生でも、人間関係の中で罪としかいいようのないものがあって、それを自分の力で解決することができない。赦したまえと言わざるを得ないものがあって、しかしそれがなければ神様とも、人間同士でも、共にいられないのだということをなんとか実感してもらいたいと思っています。どこかで自分の罪の問題に向き合うことがなければ、イエス・キリストに出会うことの大きさも、For Othersの意味も、表面的な理解で終わってしまうかなと思うんです。
大塩 大学の方はどうですか?
廣石 罪ということを考えるとき、今の学生たちにとって何が1番近い経験だろうかと思ったら、たぶん失望じゃないかと思うんです。夢はある、愛したい人はいる、しかし他方で、人間関係は思い通りにはならない。周囲の期待と自分自身のものさしはあるけれども、そのものさしは常に自分の身の丈よりは上にあって、それを軽々と達成していく人たちは常にいる。基本的には皆元気が良くてパワーもありますけれども、そういう失望感に捉えられないようになんとか頑張っているところがかなりありますね。彼女たちの「もしかしたら私は壊れるかもしれない」という恐れは非常に大きいと思うんです。
大塩 そのとき学生たちが求めているものとは何でしょうか?
廣石 思い切り誰かを愛するチャンス、喜びを持って自分を開くチャンスが欲しいのではないかと思います。そういうベーシックな感情の部分で自分が解放されれば、心に負い目があるにしても、道を模索できるという感じがしますね。
大塩 愛する対象があるかないかという問題ではなくて、それに向かっていけるかどうかという問題ですよね。そういうときにキリスト教はどんな形でサポートできると思われますか?
廣石 やはり信仰とは何か、というのが基本になると思います。信じるというのは、ある種受け取る行為だと思うんです。この人の憐みだけは受けられないとか、そういう問題が多くありますね。だから、受け取る力をいかに開かせるか。受け取る行為こそが信頼をもって応えるということでもあるわけですから。
野田 人を愛することはもちろん、神様に愛されている、受け入れられているということも、自分の経験の中から考えられるかどうかが問題なんです。中学受験を通って入学してきた生徒たちは、それまでは大体成績もトップクラスで、人との比較によって認められてきた。でも入学してしまえば自分より優れている人が必ずいて、相当な葛藤や挫折感があると思うんですね。その中で、キリスト教に触れることによって、自分は愛されているとか、自分のために神様はイエスを聞かせてくださったんだとか、そういうことを感じてほしい。そこから互いの個性を受け入れ、自分のことも肯定できるようになって、最終的には良い経験ができているのではないでしょうか。

大塩 そうですね、おそらく生徒・学生たちはかなりハードなプロセスの中にいると思うんです。そういう多感な時期に、神様やイエスという存在に礼拝などを通して出会うということは、私たちが想像する以上に大きな意味を持っているのかなと思います。それがキリスト教を支える大きな基盤になっていくことは間違いないし、私たちにとっても大切な存在であるといえますね。

フェリス女学院のキリスト教教育

大塩 次に、中高と大学における、実際のキリスト教教育の概要について教えていただけますでしょうか。正課と正課外活動がありますが、いかがですか?
廣石 大学の必修科目として1年生の前期で履修するキリスト教Ⅰは、教務課の振り分けによって、全学部・学科が入り混じる形で最初の講義を行います。この講義の目的は、フェリス女学院がどんな学校かを知ってもらい、こういう可能性やファシリティがありますよ、と伝えることです。その中で、自分以外のものと出会いながら生きるという、経験こそが人間の基本であると理解してほしい。私たちは生産者ではなく一緒にコミュニケートする存在であって、それによってお互いは自分自身となり、この世界もそれを支えるものとして評価されるべきであると。それは、現代社会が抱えるさまざまな問題に、大学として答えていくときの基本的な姿勢にもなるでしょうね。
 正課外活動については、宗教センターが主たる担い手になって、礼拝を中心にさまざまな行事を行っています。ここでは、フェリススピリットを養う友情関係が築ける環境をキリスト教として常に提示できること、キリスト教がその機動力を持っていることが重要だと思っています
野田 中高の場合、正課としては聖書の授業があります。フェリス女学院の聖書課の共通認識としてあるのが、聖書を通じて何かを教えるのではなく、聖書そのものを教えたいということです。最終的に聖書を自分で読めるようになってもらうための土台を提供するつもりで、J1から入門編を始めています。比較的ニュートラルな立場から歴史や知識を教えていまして、聖書に親しみ、聖書と肯定的に向き合えるようになってほしいと願っています。
 正課外としては、全員が参加する礼拝ですね。そこで否応なしに過ごす6年間というのは、皮膚から入ってくる体験というか、私は意味があることだと思います。自分の罪や限界というものを、礼拝を通じて受け止め、支えられたということが無意識のうちにあるんじゃないかと思うんです。実際、卒業後に多くの生徒が、礼拝が大事だったと話してくれます。
大塩 私は、学校がキリスト教信仰に基づく教育を行うと言っているからには、それに相応しい、それを育てるような仕組みを工夫していきたいと考えております。フェリスに相応しいキリスト教教育といいますか、神様、イエスと共にあるということを実感させるような仕組みですね。
廣石 そのためには、キリスト教教育が、社会が通常示してくれない道標、社会人として成熟していくための道標を示してあげられるかが大事だと思います。また、キリスト教のスピリットの根幹をこう生かせるからフェリス女学院は良いのだ、と言えることが必要です。その意味でFor Othersという教育理念は有益なモットーだと思いますが、それを今後社会で生きていく学生たちのために、「こう生かします」と具体的に打ち出せれば1番いいですよね。
野田 フェリスのキリスト教と言ったらおかしいかもしれませんが、フェリス女学院が大事にし、生徒に伝え続けてきたキリスト教としてのメッセージがある。たとえ世の中が宗教に懐疑的であろうと、本人の関心がなかろうと、ここに来てそういうものに触れてもらうことが大事だと思います。基本的には今後も改革派的な伝統の下で礼拝を続けていきたいですね。その体験がいつか生徒にとって、神様との出会いとか、自分と肯定的に向き合うことにつながってくれたらと思っています。

キリスト教教育によるALL FERRISの実現

大塩 私が学院長に就任してまず気付いたのは、中高と大学が全く別な世界にあるというか、お互いに関心を持っていないということでした。そこでALL FERRISという言葉を使って、フェリス女学院の一体感を醸成したいと唱えてきましたが、その場合やはり共通項になるのはキリスト教です。このキリスト教教育を通じて、ALL FERRISをどう実現できるのか。そのための役割があり得ると思われますか?
野田 中高と大学では可能性と現実性が違うところが当然あって、それをどのように統一していくかは非常に難しいことですが、For Othersの下での一貫性というか、可能性はあり得るかなと思っています。For Othersという自然発生的なフェリスのスピリットを受け継ぎ、時代の中でいきいきと発揮されるよう導くことが、キリスト教教育の責任を持つ者同士の連携になるのではないかと思います。
廣石 ALLということを本当に実感するためには、現実的な近さも必要ですよね。やはりALL FERRISを支えるのは単なる理念ではなく、実際の交流ですから。それを可能にする人的、場所的、暮らし的、カリキュラム的な近さが必要なんだと思います。
大塩 まずは、中高と大学がそれぞれどんな教育をしているのか、お互いに関心を持ってほしいですね。中高が毎朝礼拝を捧げているとか、大学の国際ワークキャンプとか、お互いがどんな学校なのかを、偏差値云々を超えて生徒、学生、教職員にもっと知ってほしい。今回の鼎談もその一貫になればと思い、企画しました。
廣石 それを中身のあるものにしていくためには、私たち3人がその環境づくりをしなければなりませんね。礼拝や研修旅行などを、生徒、学生が一緒になって行うのも良いと思います。ALL FERRISの一番の担い手は生徒、学生であり、教員はそのサポート役ですから。
大塩 そうですね。今回の鼎談をきっかけに、フェリス女学院のキリスト教教育がさらに深められるよう、今後も皆さんにご協力いただければ幸いです。

学院長 大塩 武(おおしお たけし)

学院長 大塩 武(おおしお たけし)
1943年生まれ。早稲田大学商学部卒業、早稲田大学大学院商学研究科博士課程最終単位取得。商学博士(早稲田大学)。明治学院大学経済学部教授在職中に、ハーバード大学ライシャワー日本研究所に特別研究員(Visiting Scholar)として1年間滞在。明治学院大学では、情報センター長、教務部長、入試センター長、経済学部長、学長を歴任。社会経済史学会評議員、経営史学会幹事、編集委員、評議員、理事を歴任。著書:単著『日窒コンツェルンの研究』(1989年、日本経済評論社)、麻島昭一と共著『昭和電工成立史の研究』(1997年、日本経済評論社)、ほか多数。

中学校・高等学校宗教主事 野田 美由紀(のだ みゆき)

中学校・高等学校宗教主事
野田 美由紀
(のだ みゆき)
1989年東京神学大学大学院博士課程前期修了。日本基督教団信濃町教会担任教師、北陸学院高等学校聖書科教諭を務めた後、1998年よりフェリス女学院中学校・高等学校聖書科教諭として勤務。現在、中学校・高等学校宗教主事および宗教部長。訳書に『テサロニケの信徒への手紙1・2』『第2コリント書の神学』。

大学宗教主任 廣石 望(ひろいし のぞむ)

大学宗教主任 廣石 望(ひろいし のぞむ)
1961年生まれ。東洋史学(広島大学)、西洋古典学(東京大学大学院)、プロテスタント神学(チューリヒ大学、神学博士)を学び、現在、国際交流学部教授、大学宗教主任。日本基督教団正教師。著書に『説教集 イエス物語』、『信仰と経験― イエスと〈神の王国〉の福音』など。

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