ホーム > フェリス女学院の歩み > フェリス歴史の扉 > ブース一族との時代を越えた交流

創立150周年にむけて A BRAVE PIONEER(勇敢な先駆者)を受け継ぐ

 1881年12月、宣教師ユージン・S.ブースはフェリス・セミナリーの二代校長に就任した。以来41年間にわたり校長を務め、就任時20名足らずの生徒を、退任時600名までにした「フェリスの育ての親」と言われている。
 ブースの妻ステラは夫の校長就任に伴い、妻として教師として夫を支え、フェリスの教育、発展に大きく貢献する。2人の間には日本で生まれた6人の子供がいた。長男フランク(1881年長崎生まれ)、次男ウォルタ(1883年生、生後7ヶ月で夭折)、1885年長女ユージニー(1885年横浜生まれ)、三男スタンレー(1888年生、生後7ヶ月で夭折)、四男フェリス(1891年横浜生まれ)、五男ヒュー(1893年横浜生まれ)、家族でフェリスの校舎の一角に住んでいた。子供たちは外国人子弟のための学校に通い、上級学校に進学する年齢になるとアメリカに帰国した。
 ブース一家は生徒たちと家族のように接し、理想的なクリスチャンホームの手本であった。在校生は「フェっちゃん」、「ヒューちゃん」と親しげに呼び、カードや英語の家族合わせ、時には鬼ごっこを一緒にして生徒たちの人気者であった(和田敏子「お菊ちゃん」、『あゆみ』43号)。
 長女ユージニー(ジニー)は1905年に帰米し、ニュージャージー州のブレアーアカデミーへ進学。卒業後、日本へ戻り、ミス・カイパーが病気療養のために帰国した1911年から1年間本科1年生の英語を教え、1912年末帰国しハリー・キャンベルと結婚した。二人には3人の子供がおり、次女のルース・ジョンソン夫妻は1978年来日しフェリスを訪問している。
 その後、ジニーの子孫との交流は途絶えていたが、2014年資料室に寄せられた1通の手紙をきっかけに、孫のスティーブ・ジョンソン氏と連絡がとれるようになった。そして、大西比呂志国際交流学部教授がアーカンソーのジョンソン宅を訪問して、氏が保有するジニーの手紙の調査を行った。2018年9月、ジョンソン氏から祖母ジニーが日本から持ち帰った品々をフェリスに寄贈したいという申し出があり、フェリス側も受け入れの意志を示し現在準備を進めている。それに先立ち、ジョンソン夫妻が訪日され、10月4日ご来校いただいた。朝から中高の礼拝にご出席いただき、その後J1のホームルームの時間で祖母ジニーについてお話をいただいた。時代を越えてブース校長のご子孫と在校生が直接交流できたことは、フェリスの歴史を共有する深い絆を確認できた瞬間であった。
 来年オープンする150周年記念館(仮)にジニーが残した品々を展示する予定である。      (学院資料室)

写真の裏書(図3)

スティーブ・ジョンソン夫妻とJ1の生徒たち

ページトップへ戻る