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聖書を通して教えを学び、自ら考える

■聖書を読み解くための力を養う

 キリスト教の学校の多くには「宗教」の時間がありますが、「聖書」を中心に据えているという点が、フェリスの宗教教育の大きな特徴です。キリスト教信仰の規準であり、神のことばである聖書を自分で読み解くことを通して、生徒一人ひとりが神と出会い、救いを得る体験をしてほしいというのが、私たち聖書科教員の願いです。
 本校に入学してくる生徒のほとんどはクリスチャンではなく、また、昨今社会問題となっているカルト宗教の影響もあり、入学した時点では「宗教」や「信仰」に対してマイナスイメージをもっている生徒も少なくありません。宗教に対する先入観を取り払い、私たちにとって宗教や信仰は必要なものであることを理解してもらうことが、聖書科の最初の目標です。
 初めて聖書に触れるJ1では、聖書とは何か、礼拝とは何かという基礎や、聖書の物語の順番、礼拝のお祈りの言葉や作法などを、『キリスト教入門』という教科書等を使いながら学びます。またイエスの誕生については、クリスマス物語を紙芝居で表現するというアウトプットの機会も設けています。
 J2の前期では、教会史と教派、フェリスの歴史、宗教とカルトについて学びます。そして後期からは、聖書の内容に入っていきます。聖書の他に『イエスを訪ねて』というテキストも用いますが、これは教科書ではなく副読本であると捉えています。聖書科における教科書は、あくまでも聖書。テキストは、その聖書を読み解き理解するための副読本なのです。

■生徒の個性が光る、S3の研究・発表

 J3とS1では、旧約聖書について学びます。39巻ある旧約聖書のうち、J3では創世記を、S1では創世記以外を読んでいきます。創世記に1年間をかけるのは、創世記をしっかりと読み込み、そこに出てくる主要な地名や人名、人種名などを押さえておくことが、その後聖書を読み進めるうえで有効であるからです。日本人にとっては馴染みのない名称が多く、それが聖書を読むハードルを上げてしまいかねません。聖書に親しんでほしいという思いから、このようなカリキュラムとしています。
 S2では新約聖書について学び、聖書の成立背景など学問的なことにも触れていきます。そして最終学年のS3では、生徒による研究・発表を中心にしています。毎回3〜4人の生徒が1人15〜20分ほど発表を行います。聖書研究とテーマ研究がセットになった『キリスト教との出会い 生きる力』というテキストを使い、生徒たちは聖書研究もしくはテーマ研究のいずれかを担当することになります。
 聖書研究を担当する生徒は、日本語で書かれた聖書、英語で書かれた聖書、聖書の注解書などを読み解きながら、該当する箇所についての解釈や背景などについてまとめ、自分なりの解釈や自身の経験なども交えつつ、発表します。中高の図書館には、聖書や注解書をはじめとしたキリスト教関連の書籍が豊富に収蔵されていて、聖書研究を行ううえでこれ以上にない恵まれた環境にあります。
 一方、テーマ研究を担当する生徒は、社会問題や哲学的な問いについて、聖書を引用したり、実体験を重ね合わせたりしながらまとめ、発表します。
 S3の研究・発表は生徒それぞれの個性が光り、また、普段は話さないような内面を表出することで、お互いへの理解や仲間との絆が深まる機会になっています。まさに本校の聖書科を象徴する学びであります。

■いつか神に救われる経験をしてほしい

 聖書科ではテストを行っていません。それは、テストをするとテストのための学びになってしまい、「神のことばに触れて救いを得る」という聖書科の本来の意味合いが薄れてしまうと考えるからです。他校の先生からは、「テストをやらないのに授業が成立するのか?」と驚かれますが、そこは本校の生徒たちの素晴らしいところ。テストがないからといって怠けることはなく、主体的に授業に参加してくれています。
 なかには、授業で紹介したヘブライ語に興味をもち、「ヘブライ語を勉強したい」と私のもとにやって来た生徒たちもいます。現在、彼女たちは、ヘブライ語で書かれた旧約聖書の翻訳に挑戦しています。もうすぐヨナ書を訳し終わるところまで来ていて、今後は「フェリス訳聖書シリーズ」ができたらおもしろいな、なんて思っています。
 6年間の集大成であるS3の研究・発表を見ていると、生徒たちの心の成長を実感します。キリスト教についての知識、学問的に探究する力、人前で発表する力などが身につくことはもちろん有意義なことですが、やはり、いつか神に出会って自分自身が救われる経験をしてほしいというのが、一人のクリスチャンとしての私の願いです。これからの長い人生において、聖書を開いてみようかな、教会に行ってみようかなと心が動く原体験に、聖書科の授業がなれば嬉しいですね。

(中高 聖書科)

テーマ研究を担当したS3生徒の発表原稿(一部抜粋)
「体験する」「経験する」― 人は旅に出、冒険して神に出会う―
 体験と経験、あまり区別されずに使われていると感じるかもしれませんが、実際に辞書を引いてみると、体験は見聞きしたり行ったりすること、経験はそれに加え、行ったことによって得られた知識や技術も意味し、私たち日本人はこの2つを無意識に使い分けているのだと思います。  
(略)
 皆さんは約3年間のコロナ禍は体験、経験どちらだと思いますか。分けようとすると難しいので、ある意味英語でexperienceという一語にまとめるほうが賢明かもしれません。生活の中でパンデミックに襲われたといえば体験ですが、不安を抱える中でも、諦めの悪い私たちはなんとか工夫して新しい方法を生み出し、チャレンジし続け、成長してきました。その点では経験と呼べるし、「移動」は制限されていましたが「旅」をしていたといえるのではないでしょうか。  
(略)
 3月の卒業式で、卒業生代表の方が、「今の学生はかわいそうという言葉をよく耳にするが、私たちはかわいそうではない」というようなことを仰っていたのを覚えていますか。私はその言葉に深く共感したので、とても印象に残っています。  
(略)
 世間一般の人が私達に対してコロナ世代というレッテルを貼っているのに、私達自身でさえも自分たちはコロナ世代だからと自分を抑え込んでしまいたくはありません。中高時代をコロナに奪われたことや、世代全体として先程挙げたような特徴を持っていることは事実だと思いますが、私達はコロナ関係なく一人ひとり違うし、コロナの一語でまとめられないと思います。だからこそ、私達にとってコロナ禍は人生という「旅」の中で私達を成長させてくれた「経験」の一部と捉えるべきではないでしょうか。

聖書カバーは中学入学後に家庭科の授業で制作

発表者にはクラスメイト全員から感想が出される

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