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フェリスの女子教育

フェリスの女子教育 Part2

 1870(明治3)年に、日本で最初の近代的女子教育機関として、アメリカの改革派教会の宣教師であったメアリー・E.キダーによって、フェリス女学院は始められました。女性が学ぶことがまだ認められていなかった時代、そして「キリシタン禁制」の高札がまだ掲げられていた時代に「キリスト教の信仰に基づく教育」を建学の精神として掲げ、時代を切り拓く教育を行ってきました。
 フェリスは2020年に、150周年を迎えます。1870年の創立から現在まで、フェリスで学んだ卒業生は約4万6千人以上。150年という歴史の中には、いくたびもの困難があり、また女性を取り巻く環境も大きく変わってきましたが、創立当時からの教育方針や校風は長きにわたって受け継がれています。
 その長い歴史の中で、フェリスが育成してきた女性像とはどんなものだったのでしょうか。Part2となる今回は、「女子教育」をテーマに、大学文学部教授で、学院の150年史編纂委員の井上惠美子先生と、同窓生で学院の監事でもある、元法政大学教授の宮城まり子先生にそれぞれお話を伺いました。

――――メアリー・E.キダーが来日したのは、フェリスが創立する1年前の1869(明治2)年のこと。アメリカの改革派教会の宣教師だったサミュエル・R・ブラウン夫妻とともに横浜に到着。新潟で約1年を過ごした後、横浜へ戻ります。そして居留地39番のヘボン施療所で行われていた英語の授業を引き継ぎます。これが、フェリス女学院の出発点で、日本の近代女子教育の発祥です。キダーが引き継いだ当時、男子も含めて生徒は数人でしたが、翌年には生徒も増え、女子のみのクラスにしました。

 当時、海外伝道を志す者の中で、女性のほとんどは、宣教師の妻として、夫婦での来日が一般的でした。その中で、キダーは単身での来日でした。これは、日本の女子教育への明確な意志があってのことです。実際に、キダーがアメリカのミッション本部のフェリス博士に送った手紙の中でもこう記しています。
 『外国伝道ということは、わたしの心を揺り動かすのです。(中略)最初わたしがまだ女学生のとき、一度考えたことがありました。(中略)数年前に母が亡くなり、気にかかっていた妹も、もうわたしの世話にならなくてもよいことになり、わたしは自分のことだけを考えればよい状態になりましたので、今再びブラウン博士の手紙を取り出し、祈って考えました。日本におけるわたしの働きがやむにやまれぬもの、神がわたしを日本に導いておられる、と感ずるようになりました』。
 キダーが来日したのは36歳。この手紙を見ると、療養中の妹のことなど一身上の都合もあり、日本行きはなかなか実行に移せませんでしたが、キダーは女学生の頃から外国伝道の意志を持ち、その決心はひるがえることなく一貫していたことがわかります。(井上先生)

女子教育の必要性を説いた開拓者でもあるキダー

――――当時の日本はまだ開国したばかりの頃。キダーの祖国アメリカに比べて貧しく、さらには、キリシタン禁制下の伝道地であったことから、単身での来日は、とても勇気のいる決断だったはずです。キダーは当時としても革新的な人物であり、キリスト教教育、そして女子教育を始めた開拓者として、フェリスの生徒たちのロールモデルになっていきます。

 キダーは創立当時、英語と聖書、賛美歌などの音楽の授業を行っていましたが、すぐに歴史や数学、洋裁や編み物などの授業も加えています。1875(明治8)年に山手178番に開校した時には、アメリカの女子中・高等教育機関であるセミナリーを模して教育理念や教育内容が整えられました。これは、外国人宣教師による私塾的な意味合いの学校を脱し、日本における女子普通教育機関として、女性の教養を高め、自立できる人材を育成しようという考えのもとに行われました。そのため、キダーの後を受け継いだブース校長は、学則を整備。また、新鮮で豊富な水を供給するための風車や暖房、ピアノを設置し、ヴァン・スカイック・ホールなど学校の設備も充実させていきます。これは当時の女学校としては画期的なことでした。(井上先生)

個性を発揮しながらも自立への道を進む

――――フェリスは当初から、経済的に余裕のある家庭の子女が多く集まっていましたが、経済的に困難でもミッションから援助を受け勉強をすることができました。援助を受けた生徒たちは、卒業後、伝道活動や助教という形で奉仕を行い、自立し、世に出ていきました。 

 戦前の日本の女子教育は『良妻賢母』が多かったのに対し、フェリスでは『道を切り拓く知』、つまり自分の人生を切り開いていくことのできる人材を育成しようと、先駆的な考え方を持った学校でした。例えば、今は恋愛結婚が当たり前の時代になっていますが、当時の日本にはそういう考えがほとんどありませんでした。そうした環境で育っている生徒たちに、キダーは自身の結婚式を見せて『愛のみによる結婚』とはどういうものか、夫婦のあり方とはどういうものか、生徒たちに考えさせる機会を与えていました。この例からみても『自分で考える』という能動的な人材育成の方針は、創立当時から変わらず、今のフェリス生たちにも受け継がれているように思います。(井上先生)

  ――――1890年代前半頃のフェリスの様子を、文筆家としても知られ、中村屋の女主人でもある相馬黒光は次のように記しています。
 「世間ではフエリスは貴族的だという評判でしたが、私にはそういう風には見えませんでした。生徒の服装も綿服が多く、驕った風が見えませんでした。ただその動作、そして服装にあらわれた色彩の好みなどは、随分西洋風で、それが教養につれて洗練され、一種のミッションスタイルが出来ておりました。髪の結い方、半襟の色なども一人々々みな異なった個性を発揮していて、何等の拘束なく、一見雑然として見えるうちに、よく統一され調和されて、自ずと清楚高尚でした」(『黙移』、1936年)

自由闊達で自律的
フェリス生の変わらぬ姿

――――フェリス女学院で中学から高等学校までの六年間を過ごし、大学院を卒業された後、さまざまな大学でも教鞭を取られている宮城まり子先生。当時の学校生活の印象を振り返っていただきました。

 フェリス生の印象は、『自由闊達で自律的』だということ。私が在学中も、自分たちで考えて、考えたことに責任を持つということが自然にできる環境にありました。フェリスの先生方には、よほどのことでない限り「NO」という言葉がありません。何も強制されませんので、いたずらもしょっちゅうしていました(笑)。しかし、好きなことを好きなだけ、好奇心の赴くままにチャレンジできる環境があり、先生方はいつも背中を押してくれていました。NOと言わないのは、生徒たちを信頼をしてくれている証しだったのだと今となっては感じます。
 そして、『自律』という言葉は、自力で立った後に、自分で自分を律しながら、自分自身が決めた方向性に進んでいけるということ。自立よりもさらに一歩進んだ意味として捉えています。普段の勉強はもちろんのこと、行事や好きなことに取り組むこと、将来を考えること…。フェリスでは、自由だからこそ、自分自身で考え、その考えに責任を持ち、何事も全力で取り組むということが自然に備わっていったように思います。自律的な精神が自然に育める環境にあることは、長い歴史の中で受け継がれ、育んできたゆえの結果だと思います。(宮城先生)

カイパー校長の死によって生徒の心に刻まれた「For Others」

――――また、フェリスに欠かせないのが教育理念である「For Others」です。これはもともと誰か特定の人によって提唱されたものではありません。長い歴史の中で自然に人々の心の中で形をなし、学院のモットーとして受け継がれるようになったものです。「自分以外の誰かのために」。自分や親しい人だけでなく、より広い視野から他者の存在をも考え、他者のために行動するという理念は、現在まで受け継がれているものです。

 中高時代は、毎朝礼拝があり、聖書の授業も週に一度ありました。すると、神様がいるという感覚を自然と得ることができ、『For Others』という言葉もスッと心に入っていたような気がします。後輩たちを見ても、フェリス生は『For Others』をあたり前に体現できるバランス感覚に優れた生徒が多いと感じています。私の専門分野でもある心理学に『ポジティブ心理学』という分野があります。これは、幸せとは何かを研究していく学問です。幸せを作る要素のひとつに、他者とのかかわりがあります。幸せの基準は一人ひとり違うのだから、他者と自分とを比べず、人に貢献することで、自分自身も幸せになるという、まさに『For Others』が幸せには必要だと言われているのです。自分がより自分らしく、幸せに生きるために必要なことを、フェリスでは自然に教えてもらうことができました。これは社会に出ていく上で大きな自信になりますし、後輩たちからも自信や前向きさを感じています。(宮城先生)

女性の活躍が求められる今こそ女子教育は必要

――――自律的であるとともに、他者のために尽くすという心を育んできたフェリス女学院。中学校、高等学校、大学からなる教育機関として、キリスト教信仰による女子教育を現在まで実践し続けています。その間、女子の地位は歴史とともに大きく変わってきており、社会の多様化が求められる中で、女子教育の意義も問われ始めています。

 女子校の共学化という流れは、現在、日本の学校の多くで見られます。また、女性の活躍が日本社会の課題であることも強く示されています。こうした社会の中で、女性だけの環境の中で性差を意識せずに、人としての資質を見つめ、自由かつ主体的に判断のできる女性が増えていくことは非常に意義のあることだと思っています。
 近年、トランスジェンダーの学生への対応が議論になっていますが、いくつかの大学で学生たちにアンケートを取ったところ、フェリス生がもっとも寛大で、『トランスジェンダーの人の隣で授業を受けていても何も問題はない』と回答しています。多様性を認められるという教育は、『For Others』の精神でもあり、150年の歴史の中で培われたもの。
 今後は、災害時に女性に特化した避難所として大学を提供するなど、女子教育を行っているフェリスだからこそ、できることがあると思っています。時代を切り拓く人材を育成してきたフェリスだからこそ、この先も、先陣をきって新しいことを実践する必要があると考えています。(井上先生)
 150年前から、フェリスは『人』を育てることに重点を置いてきました。仕事も家事も育児も、男女の垣根がなくなってきた今、『人』の教育という意味では女子教育ということにこだわらなくてもいい時代がくるかもしれません。これまでも時代を切り拓いてきたフェリスだからこそ、また新しいフェリスの一面が見られること、そしてフェリス生の活躍を楽しみにしています。(宮城先生)

ヴァン・スカイック・ホール(1889年竣工)

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