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第2回 大船渡市立赤崎中学校 校歌再生プロジェクト

 音楽学部による「大船渡市立赤崎中学校校歌再生プロジェクト」を、大学演奏委員会室の中村ひろ子がレポートする。(2012年12月)

東日本大震災の津波で何もかも流失してしまった大船渡の中学に、
校歌の音源を作って贈りたい、フェリスの力を貸してもらえないか


 横浜ライオンズクラブ※1から、こんな打診をいただいたのは6月半ばのことだった。校歌がなくなるってどういうこと? 大船渡ってどのへんだっけ? と、誰もが思ったあのときから5か月。今や、フェリスには赤崎中学校の校歌を口ずさめる学生や教職員がたくさんいる。

For Others

 岩手県大船渡市立赤崎中学校は大船渡湾の最奥に位置し、校庭から道路一本隔てたすぐ向こうが海。2011年3月11日、東日本大震災の津波で3階まで浸水、生徒は裏山に駆け登って全員無事だったものの、校舎は使用不能となり校歌の楽譜も音源も流されてしまった。ついては、7月に予定される仮校舎への移転にあわせて校歌を録音してCD化し、現地で贈呈式を兼ねたミニ・コンサートもおこないたい。それが、ライオンズクラブからのご提案だった。
 音楽学部としてできることならぜひ協力しましょうと、教員たちの即断を得た。「これ1枚しかない」という手書きの譜面を急いで手直し・浄書して、7月12日にフェリスホールで録音。それから10日ほどで編集作業を済ませてコピーし、とりあえず手作りのジャケットをつけたCDが20枚完成した。そして、7月27日には学生たちが赤崎中学校を訪ねてCDの贈呈式に臨み、ミニ・コンサートを開いた。
 この間、演奏学科・音楽芸術学科双方の教員・学生がおおぜい関わり、文字どおり音楽学部の総力を挙げて「For Others」を体現するプロジェクトとなった。しかし、特に現地を訪ねたことは、全員にとって決して忘れられない経験だった。その意味では、与えるよりも与えられたものが多く、感謝すべきはむしろ私たちの方だともいえる。

故郷

 7月27日、横浜ライオンズクラブの方々と共に赤崎中学校を訪ねたのは、学生8人と音楽学部長の立神粧子教授。三陸鉄道南リアス線が未だ復旧していないため、大船渡へは東北新幹線の水沢江刺駅から貸切バスで入る。長時間山道を揺られてやっと陸前高田の平野に出たあたりから生々しい津波の爪痕が目につきはじめ、全員が言葉を失って窓の外を見つめる車内に、現地ライオンズクラブの磯谷憲一さんが震災の体験を訥々と語る声が響いた(※写真参照)。
 大船渡市に入り、廃墟のままの旧赤崎中学校を経て、美しい入江を望む岬の高台に建つ仮校舎へ。校舎の窓には生徒たちの笑顔が鈴なりで、まるで映画スターが来たような騒ぎ。学生の1人は「私は被災地を見ただけで笑えなくなっていたのに、子供たちが笑顔を向けてくれる強さに感動した」と感想を寄せてくれた。
 体育館での1時間あまりのコンサートを、中学生たちは驚くほど集中して楽しんでくれた。「弾きながら生徒たちの真剣な眼差しを感じた」と感想を述べた学生も。しかし、最後に〈故郷〉(作詞:高野辰之、作曲:岡野貞一)が歌われると、にわかに顔を伏せて涙ぐむ生徒の姿が目につき、胸を衝かれた。「如何にいます父母/恙無しや友がき/雨に風につけても/思ひ出づる故郷」という歌詞は、彼らにとっては今現在の痛切な思いなのだ。笑顔の底にある心の傷をこれからどうケアしていけばいいのか、校長先生も磯谷さんもそこを何より心配しておられた。この音楽が一瞬でもいいから少しでもお役に立てばと願うばかりだった。

これからもずっと

 10月12日、磯谷さんが横浜ライオンズクラブ60周年の式典で来浜、フェリスにも立ち寄ってくださり、大塩学院長にお引き合わせすることができた。そして15日には、大学院生と卒業生の2人が再び赤崎中学校に招かれ、今度は校歌ほか合唱の指導をして大変喜んでいただいた。磯谷さんは、「あのときほど音楽のもつ力を感じたことはない」と、力をこめておっしゃってくださった。音楽を学ぶ学生たちにとって、これほどうれしい言葉はない。復興は、まだまだこれから。赤崎中学校とのご縁は大切にしていきたいと、みんなが思っている。

赤崎中学校 校歌再生までのプロセス

 演奏委員会室より、津波で流された赤崎中学校校歌を復元し、フェリスホールで録音するので、楽譜内容を確かめてほしいとの早急の依頼を受けたことが、赤崎中学校との関わりの発端でした。作曲者は著名な故下總皖一氏でしたが、記憶を辿っての採譜には疑問点も多く見受けられたので、旋律はそのままに、アレンジをしてみました。後日、赤崎中学校の皆様に喜んで受け入れられていることを関係者よりお聞きし、嬉しく思いました。CD制作や、現地に赴いて指導された皆様、実務の労を執られた演奏委員会室、学院本部の方々に厚く感謝致します。

岡島雅興

岡島雅興(おかじま まさおき)
音楽学部 音楽芸術学科特任教授
東京藝術大学音楽学部作曲科を経て、同大学院作曲専攻を修了。故池内友次郎氏に師事。日本の作曲家シリーズXVI「岡島雅興個展」、また「岡島雅興作品集」などの個展を開催し、高評を戴いている。作品は合唱曲、室内楽曲、管弦楽曲などがあるが、フェリスで初演された詩編などの宗教曲作品も多い。

大船渡市の被害と現状

 大船渡市は岩手県の宮城寄りの海岸部に位置し、人口は約4万人。岬ひとつ隔てた陸前高田市と共に、東日本大震災の津波で大きな被害を受けた。一帯は典型的なリアス式海岸で、太平洋から逆V字型に深く切れ込んだ湾が並ぶ。震度6の揺れから約30分後、高さ8~11mの津波が押し寄せた。亡くなった方・行方不明の方は420人。市内の建物の約3割が被災し、瓦礫の総量は756,400tに及ぶ。今もなお瓦礫の撤去・処理が続く一方、住宅や仮設店舗の整備、道路や鉄道、港の施設の復旧工事などが進められている。実際に訪れてみると、まだまだ更地が目につく。広い河川敷のように見える原っぱが、震災前はこのあたり1番の繁華街だったと聞いても、想像がつかない。旧赤崎中学校の校庭は瓦礫の仮置き場になっていて、生活感も生々しい瓦礫がうず高く積み上げられている。しかし、中心部では仮設の飲食店街も元気に営業しており、復興への強い意志を感じた。

赤崎中学校生徒からのメッセージ

 私たちのために校歌の楽譜を作っていただきありがとうございました。
 震災後、初めて校歌を歌ったのは、間借りした大船渡中学校でのこと。津波をかぶった私たちの校舎を対岸に眺めながらでした。
 普段の生活は、2つの学校が1つの校舎を共有し、思い通りにならないことの連続でした。文化祭、卒業式に向けての合唱練習は教室で、キーボードを使っておこないました。部活動の時間も減り、思うように練習できないままでした。
 しかし、今年の7月、仮設校舎での生活がスタートしました。1年4ヶ月ぶりの自分たちの校舎、校歌の歌詞が刻まれた板、そして、自分たちの体育館で歌った赤崎中学校校歌。全員の耳に響き渡る歌声。今、被災した私たちの校舎は解体が始まっています。しかし、皆さんが作ってくださった新しい校歌のように、新しい歴史も生まれています。これからも復興に向けて全員でがんばっていきます。

本学学生の指導で校歌を歌う中学生たち。2011年4月から今年6月までは市内の大船渡中学校に"間借り"していたので、特に1年生はほとんど校歌を歌ったことがなかったとのこと。
撮影:横浜ライオンズクラブ

完成した『大船渡市立赤崎中学校校歌』CD。ジャケットの写真は、赤崎中学校仮校舎から望む太平洋。この景色が校歌の歌詞にも歌われている。

大船渡五葉ライオンズクラブの磯谷憲一さん。赤崎中学校との調整役として、すべてを手配してくださった。

※1 ライオンズクラブとは?
世界最大の奉仕クラブ組織。地域社会を支援するために必要なことに応え、207の国・地域にあるライオンズのボランティア組織に属する135万人の会員が「コミュニティとは自分達が作るもの」を中核的な信念として共有し、どこで奉仕をしようとも、親睦を築くことをモットーに活動している。

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