フェリス歴史の扉

フェリスにおける音楽教育の伝統

指導中のミス・モルトン

伝統をつくったミス・モルトン

  フェリスの音楽教育の伝統は、第二代校長ブースが1887(明治20)年にフェリスに招聘した、カナダ人音楽教師ミス・モルトン(Julia A. Morton,1852-1922)によって築かれた。
 モルトンが着任するまでのフェリスの音楽教育の水準は、他のミッションスクールに較べて劣っていた。モルトンは就任して間もなく、イギリスの音楽教育家ジョン・カーウェン(John Curwen,1816-1880)が確立した音楽教育システム“Tonic Sol-fa”(字音記譜法)を知ることになる。“Tonic Sol-fa”は、音楽に対して普通程度の才能の者に実用的な音楽を教育することが意図され、集団的な歌唱の指導としては優れたものであった。“Tonic Sol-fa”がフェリスの音楽教育にとって開発的であることを確信したモルトンは、自らの授業にこれを取り入れるため、オーストラリア人のミセス・パットンの門下生になって学んだ。このモルトンの熱心な教育開発は、生徒の音楽的能力を発達させ、フェリスの音楽教育は飛躍的に高まり、今日につながる伝統の礎となった。

生徒とミス・モルトン

生徒とミス・モルトン

ミス・モルトンの最期

モルトンの人生は、音楽教師としての職務に己を捧げると同時に、日曜学校を主宰し、その柔和で快活な人柄、気高いキリスト者としての人格は、多くの生徒を信仰へと誘った。そして、天職であった音楽をもって最後まで奉仕した。
 1922(大正11年)年5月25日の夜、横浜在留外国人主催の文芸音楽会がフェリスのヴァン・スカイック・ホールで催され、モルトンはフェリス生の有志とともに参加していた。しかし、モルトンは、フェリス生が歌うキングスレー(Charles Kingsley, 1819-1875)の"A Farewell" の伴奏中に突如としてピアノの鍵盤に昏倒。山手町海軍病院長スピーア氏が駆けつけたときは、すでに絶命の後であった。病名は心臓麻痺。70歳の誕生日を迎える前のできことだった。
 翌朝の礼拝で、ブース校長は生徒たちに「昨夜神様は私共の近くにおいでになった。そして愛する婢ミス・モルトンをお召しになった」と語り、全校生徒及び卒業生による告別式を行ったが、記念すべき楽しい席上で恩師の急逝に遭った生徒たちは、ただ涙にくれるのみであった。
 モルトンの死は、翌日の東京朝日新聞の朝刊及び夕刊続報で「哀しき告別の曲」「弾奏中卒去したモルトン女史 我が女子教育界の恩人」と大きく報じられた。

東京朝日新聞(1922年5月27日朝刊)掲載

東京朝日新聞(1922年5月27日朝刊)掲載

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