フェリス女学院の歩み

創設の頃

キダーの来日
 1869(明治2)年8月メアリー・E. キダーは、サミュエル・R. ブラウン夫妻と共に横浜に到着、10月新潟に赴きました。アメリカ改革派教会外国伝道局(リフォームド ミッション)派遣の未婚女性宣教師として来日したものです。当時の日本は、まだ切支丹禁制下の危険な伝道地でした。

創立者 メアリー・E.キダー

創立者
メアリー・E.キダー

日本の女子教育の発祥
 1870(明治3)年7月再び横浜に戻り、9月21日より居留地39 番へボン施療所で行われていた英語の授業を引き継ぎました。これがフェリス女学院の出発点であり、日本の近代女子教育の発祥です。ちなみに、最初の生徒はごく少人数でしたが、次第にふえ翌年男子は別の宣教師に頼み、女子のみのクラスとしました。

山手178 番地
 キダーは恒久的な校地の買収と、校舎及び寄宿生のための宿舎の建築を計画して、1872年ころより、アメリカ領事や大江卓県権令(県知事代理)などの後押しを受け土地を探していましたが、アメリカ海軍の病院設置のために空き地となっていた山手178番の見晴らしのよい1153坪の土地を10年の期限付きで借り受けることができました(1882年期限延長認可後、1887年永代借地権取得)。校舎建築資金については、アメリカのミッション本部のフェリス博士に、1873年2月22日付の書簡で援助の要請をしています。
 翌年、アメリカ改革派教会より主としてアメリカの日曜学校児童献金5,500ドルが送金され、1875(明治8)年6月、念願の新校舎が完成。素晴らしい校舎を目の前にした学校関係者は、休暇を取って学校を離れるのが惜しく、6、7、8月と授業を行い、夏休みは9月に入ってやっと2週間ほど取っただけでした。定員40名の寄宿舎には、日本各地から女子生徒が集まってきました。

1875年竣工 校舎・寄宿舎

1875年竣工 校舎・寄宿舎

フェリスという名称
 1874(明治7)年2月11日付で、アメリカの日曜学校の生徒達に送ったミラー夫人(メアリー・キダーは、1873年6月エドワード・R. ミラーと結婚)の書簡には、新しく建てられた寄宿舎のことや日本風の生活様式について、こまごまと記されていますが、特に学校の名称については、以下のように書かれています。
 「わたしたちの学校を何と呼ぶことに決定したかを報告したい。わたしたちの親切な友、フェリス博士に敬意を表するばかりでなく、私たちの知っている博士の父上をも記念して 『フェリス・セミナリー』としたい」
 フェリスとは、父子2代にわたるアメリカ改革派教会外国伝道局総主事の名前です。
当初の名称は、父のアイザック・フェリスに敬意を表し、「アイザック・フェリス・セミナリー」と名づけていましたが、その後「フェリス・セミナリー」に簡略化し、日本名では「フェリス学校」、「ふえりす和英女学校」などと表記されるようになりました。

アイザック・フェリス

アイザック・フェリス

ジョン・フェリス

ジョン・フェリス

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