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校旗、徽章(バッジ)、そして校章へ

フェリス女学院の校章にまつわる歴史をひも解く

 フェリス・セミナリーは、1881(明治14)年に就任した第2代校長のブースのもと学校規則を整え、1899(明治32)年には私立学校令による認可を受けた。20世紀に入ると全国各地に公立・私立の女学校が設置されるようになった。このような趨勢のもとで、フェリスは自らの独自性を意識するかのように、校旗や校章の制定に関心を持つようになった。

はじまりは校旗

 1908(明治41)年12月発行の白菊会『同窓会雑誌』第2号に「学校には校旗を制せられたり」と記されている。同年10月2日の鎌倉への遠足の記念集合写真(同誌)左端上部には校旗が写っている。その写真中の校旗と同誌の記述を手懸りに、校旗の図柄を記述すると次のようになる。
 校旗は紅色の地に黄色の楯があしらわれ、その楯に「フヱリス女学校」という文字が黒色で縦に刺繍されている。楯の上に白色のFとSの文字が描かれていた(再現図参照)。
 ところで、当時の教頭であった岩佐琢蔵の手記(『あゆみ』10号)には、1907(明治40)年11月14日横浜に帰港した皇太子を神奈川県下3校の生徒たちが迎えることになった際、生糸検査場前に整列したフェリス生が目立つようにと、ブース校長自ら意匠を凝らして作った校旗を携えた旨記されているので、「学校には校旗を制せられたり」というのは、1907(明治40)年であったと推測することができる。

徽章(バッジ)から現在の校章へ

 1915(大正4)年3月12日の教務日誌に「本校徽章を制定す。来学年から佩用することとす」とある(『フエリス和英女学校60年史』)。翌年の卒業式の記念写真を見ると、黒紋付姿の卒業生全員の胸に徽章(バッジ)が飾られている。
 その後フェリスは1923(大正12)年の関東大震災で前述の校旗を失ったため、1926(大正15)年3月、当時の生徒たちが東京日本橋の亀井旗店に出向き、バッジを示して校旗の作成を依頼し、卒業記念として寄贈したとの証言が残っている(学院資料室)。この校旗は、エンジの地色にほぼ現在と同じ色と形の校章が描かれていることから、現在の校章の起源は、1915(大正4)年になる。残念ながら、制定時のバッジ実物や新しい図柄の由来の記録は残っていない。
 1924(大正13)年セーラー型の制服が制定され、左袖の校章と左胸のバッジがフェリス生の証となった。そして、1992(平成4)年、フェリスの校章を商標登録した。太めや細めとそれまでさまざまだったデザインを統一して利用するようになり現在に至っている。

フェリス女学院の校章

フェリス女学院の校章
盾に創設時の校名Ferris SeminaryのFとSの2文字をデザインしたのがフェリス女学院の校章です。盾は私たちを外部の嵐から守る信仰の力を表し(「エフェソの信徒への手紙」6章16節)、白・黄・赤の3色は信仰、希望、愛(「コリントの信徒への手紙1」13章13節)を表しています。

再現想像図

再現図

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