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体育~健康と優美さを求めて~

 創設者メアリー・キダーの後任として1884(明治17)年第2代校長となったブースは、すぐさま教育制度を整えるとともに、欧米に比べ食生活も貧しく体格の劣った日本の女性の健康向上に努めた。
 就任翌年には生徒の健康管理のために校医を置き、教科課程に体操を積極的に取り入れ、1887(明治20)年生徒増に合わせて校舎を増築する際には運動室を設置している。体操の内容は最初は遊戯のようなものだったが、1888(明治21)年に赴任した宣教師メリー・デヨによって新式のデルサルト体操が導入された。これは人間の身体と精神は一体となって発達するという理論に基づき編み出された表情体操とも呼ばれる体操法で、1880年代アメリカで女性のための体操として普及していたものである。右の写真「デルサルト体操」を見ると、地下足袋にスカート式の珍しい体操服を着た少女たちが怒りや悲しみのポーズをとっている。フェリスに学んだ相馬黒光はデルサルト体操の操業の様子を以下のように回想しています。

4階は大ホールで、そこにはピアノが1台備えつけてあり、先生も生徒もダブダブした特殊な運動服を着てピアノに合わせて、ミス・デヨが音頭をとり、ワン、ツー、スリーと体操をいたしました。むしろ踊ったといったほうが適切でございます。・・・フェリスはすでに明治25、6年時代、日本に於ける新式婦人体操のトップを切っていたものでございます。
(相馬黒光著『黙移』女性時代社、1936年)

 当時、公立の学校にも体操科目はあったが、中学校などでは必修ではなく指導者も不足し授業内容も貧弱な状態であったため、教育や医学の関係者がたびたびフェリスに参観に訪れていた。
 デヨのもとで学んだ平野浜子(1890年卒業)はそのまま母校の教師となり体育を担当。写真「デルサルト体操」にある運動服もアメリカの教会から寄付されたものを、彼女が改良を重ね作成したものだといわれている。
 運動服は大正期には袴にタスキ掛けの和装に変わってしまったが、体操の内容は変わらず「風采の優美を整うに適する」ためにダンベルやバーを利用した美容体操に近いものを行っていた。なお、平野は1901(明治34)年日本女子大学校の創設に際し教師として招かれ、体操教育の振興に寄与している。
 1905(明治38)年の学科表では体操が予科では毎週5時間、本科や高等科でも毎週3時間あり、音楽の授業が週2時間だったことに比して授業時間数は多い。このことからも「体育」がフェリスの教育の目標のひとつであったことがわかる。
 こうしてブース校長の在任41年の期間を通して、日本の近代化とともにフェリスで学んだ女性たちは確実に成長し、新しい時代の扉を開ける力をつけていった。

デルサルト体操

デルサルト体操
怒りや悲しみのポーズをきめる生徒たち

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