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フェリスと横浜のあゆみ

フェリスと横浜のあゆみ‐苦難の時代から発展を遂げるまで‐

 1859年の開港から大きく発展を遂げた横浜。
 1870年に横浜居留地で誕生したフェリス女学院は、この横浜とともに歴史を刻んできました。多くの方の協力を得て困難を乗り越え、現在につながる学院の礎を築いた「大正から昭和初期にかけての歴史」を振り返ります。

 フェリス女学院は、1870年に日本で最初の近代的女子教育機関として居留地39番で誕生し、1875年に山手178番に移り、以後横浜とともに歴史を刻んできました。
 横浜は、日米修好通商条約に基づき、1859年に開港されました。日本の貿易拠点として、世界各地からさまざまな目的を持った人々が訪れ、世界との交流を行う中心都市として発展を遂げました。横浜はわずか100戸足らずの小さな村から、現在では人口370万人となり、東京都に次いで大きな都市へと発展しました。
 横浜とフェリスの歩みを語る上で欠かせないのが、1923年に起こった関東大震災です。9月1日午前11時58分、相模湾海溝の北西深さ15kmの地点を震源として、マグニチュード7・9の大地震が発生しました。関東一円に及んだ被害は甚大で、死者・行方不明者は10万5千人、全壊・全焼などの家屋被害は29万4千棟に及びました。
特に横浜市は被害が大きく、ほとんどの建物が一瞬で倒壊し、ちょうど昼食時だったために、方々で火災が起こり、あっという間に市内全域が炎に包まれました。市内は当時運河や橋も多く、その橋が落ちたり、焼けたりして逃げ道がなくなったことも被害を大きくしました。
 フェリスの被害として忘れてはならないのは、ジェニー・M・カイパー校長の殉職です。カイパーは1922年に新校長に就任しました。体育館が新しく作られたばかりでしたが、フェリスは、この激震と猛火によってすべての建物が倒壊・焼失しました。
このとき、カイパー校長は、前日に軽井沢から戻り、朝から校務についていました。11時近くなったとき、地方の女学校教師となっていた卒業生が訪れ、聖書やキリストの祈りについて語り合っています。祈りをして別れ、校門まで見送って校長室に戻ったときに大地震が襲来。校舎は一瞬のうちに倒壊しました。職員たちは余震が続く中、必死に助け出そうと奔走しましたが、元町方面から燃え盛る炎が崖の上に飛び火し、万策尽きてしまいます。カイパー校長は、助けようとそばにいた人々に向かって安全な場所に逃げるよう指示し、校舎とともに炎に包まれてしまいました。
関東大震災のもたらした被害は大きく、カイパー校長のほか、生徒や父兄、同窓生など20数名が犠牲となりました。また学校だけでなく、家庭での被害も大きく、学校どころではなかったといいます。『横浜復興録』(1925年)に記された市内の学校の被害状況のうち、フェリスの被害額は52万5千円となっています。同じく全焼した共立女学校(注:現在の横浜共立学園)が次いで35万1千円とあったことからも、フェリスの被害の大きさがどれほどであったかがわかります。
この地震の惨状を見たアメリカ改革派教会(RCA)のピーク博士は、廃墟に立ってフェリス教育の終焉を思い、学校関係者も復興を危ぶみ、さらに伝道局本部にも、市の復興さえ疑わしい中、フェリスの再建は難しいと判断していました。フェリスの敷地内だけでなく、横浜市全域が倒壊と焼失でがれきの山と化していたからです。
しかし、こうしたダメージを受けた中でも復学希望を申し出る生徒が多くあり、地震発生3ヶ月後にはバラック校舎を建設、翌年1月には授業が再開されています。RCAに提出した1925年報告書によると、この時点で全生徒632人のうち、381人が復学し、授業再開後1年を経過した12月には、458人になったと書かれています。
バラック校舎の建設には、同窓会が集めていた寄付金1万8千円と、アメリカ婦人伝道局からの特別補助金9千ドルが使われています。本来は、高等教育課程を作るために集められていたものでしたが、緊急事態であったことから仮設校舎建設にあてる判断をしました。結果としてこれがフェリス復興の大きな一歩となりました。
震災直後、臨時校長として指揮を取ったのはオルトマンス博士、1924年にはシェーファーが新校長に就任し、文字通り寝食を忘れて復興のために努力したといい、復興計画を携えてアメリカに赴き、募金活動をおこしました。また同じ頃、同窓会、父兄、横浜市の有志によって復興後援会が立ち上げられます。復興計画のために同窓会では5万円の寄付を目標に募金活動を行う一方で、横浜市民を巻き込んだ復興後援会では、7万5千円の目標を立てて募金活動を開始しました。復興後援会は横浜商業会議所(注:現在の横浜商工会議所)会頭井坂孝氏が座長となり、父兄代表には実業家の若尾幾太郎がおり、その他神奈川県知事の池田宏、生糸商人として著名な原富太郎(号・三渓)など横浜の名士が多く名を連ねていました。
その結果、当時のお金でアメリカから50万円、国内から7万円以上もの寄付を得、さらには1927年には、県によって当時一万円以上の費用をかけて石垣の修復工事が行われるなど、フェリスの復興につながる工事も行われています。この年には文部省の認可を受けるための手続きも行われ、校舎の再建準備とあわせて学校の組織としての拡充という点でも大きな動きがありました。その結果、市の復興と時を重ねて、1929年に新校舎が完成。震災からわずか6年で学校を再建しました。
 この新校舎の献堂式には、池田宏県知事や有吉忠一横浜市長なども出席しています。フェリスは、創立から宣教師仲間のみならず横浜の外国人社会、教会のコミュニティ、さらには神奈川県や横浜市とも密接な関わりを持っていました。大きな苦難の時代の中でも、いち早く復興を遂げ、さらに現在の形まで発展することができたのは、こうした学校内外のさまざまな人々の尽力があったからなのです。

震災、そして復興

1923年(大正12) 関東大地震により校舎倒壊焼失、カイパー校長殉職
震災後オルトマンス博士が臨時校長として就任。仮設校舎が建設され、翌年の1月より授業が再開された
1924年(大正13) ルーマン・J・シェーファー第4代校長就任
◆「標準服」を改良し「制服」を決定、翌年6月より全校生徒着用
シェーファーは直ちに校舎復興計画を立て、同窓会、保護者会、横浜市民、アメリカの信徒や、ミッションの人々などを巻き込んだ募金活動を展開した。そしてついに「まっすぐに美しく堅固」な校舎が完成した。
1927年(昭和2) 「専門学校入学者検定規程」による指定認可
1929年(昭和4) 新校舎(旧1号館)・カイパー記念講堂竣工
  竣工した校舎の講堂は「カイパー記念講堂」と命名され、その年のクリスマスにはアメリカ改革派教会婦人伝道局のエリス・ヒルから寄贈されたステンドグラスが飾られた。150枚の異なった色彩の硝子からなる美しいステンドグラスには犠牲となったカイパーを悼む辞が刻まれている。

ジェニー・M・カイパー

ジェニー・M・カイパー

バラック校舎

バラック校舎

関東大震災募金趣意書

関東大震災募金趣意書

仮設校舎

新校舎

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