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第7回 フェリスに学び新しい地平を拓く

 今回はフェリス女学院の卒業生である宮坂洋子さん、千野境子さんをお迎えしました。男性優位の時代に職を求め、社会が変わりゆく中で女性の働き方を模索してこられたお2人。それぞれの視点から、女性をとりまく社会の変遷、また女性の生き方について語っていただきました。(2014年5月)

大塩 宮坂さん、千野さんがフェリスの中高をご卒業になって約半世紀。お2人をはじめ日本の女性は地道な努力を重ねて自ら新しい地平を拓いてきました。そして今、女性が本来の能力を発揮することができるような時代を展望しつつあります。
 宮坂さんは横浜市で女性が社会で働くための枠組みを作り、退職後は世界中の女性を支援するNGOを立ち上げ、理事をお務めになられました。千野さんは産經新聞社に長く勤めて、女性が社会で働くことを実践し、現在は同社客員論説委員をお務めです。本日は女性として人間の可能性を求め続けた宮坂さんと千野さんに、女性の社会との関わりの変遷と、フェリスでの学校生活も回顧しながら、女子教育の社会的意義を語っていただければと思います。まずはそれぞれの半世紀を、宮坂さんからお話しいただけますか。

宮坂 私がフェリスに入学した当時は、まだ戦後の混乱期にあり、教育の現場でも旧体制から新体制への転換にともなうとまどいがありました。しかしフェリスは揺るぎないキリスト教信仰に基づいた教育をしておりました。大変良い教育を受けさせていただいたと思っております。
 私が中学に入ってから学校制度が変わり、高校を卒業する前年には、男子の大学が女性にも門戸を開きました。私はぜひ大学で男の人と並んで教育を受けたいと思い、早稲田大学法学部に進学いたしました。本当は文学部に行きたかったのですけれど、これから何事も自分で判断して行動し、生きていくには、法律を理解している方が力になるだろうと思ったのです。
 女性は1%ほどでしたけれど、講義は面白かったし、好きな本は読めるし、大学時代はすごく幸せで、大学院も修士課程まで行きました。しかし常に卒業後の不安を抱えてもいました。というのも、当時ほとんどの企業は女子には門戸を閉ざしていたからです。

大塩 当時、就職機会が男女平等であったのは公務員と教員だけだったので、横浜市に職を求めたと伺っています。

宮坂 そう、やむを得ない選択でした。

男性優位の社会において働き方を模索

宮坂 横浜市は給料こそ男性と同じでしたが、女性には望むような仕事が与えられませんでした。その後結婚して第1子が生まれましたが、母に育児を頼んで働き続け、係長試験を受けたところ、女性には福祉が適していると考えられていたのでしょう、福祉事務所に配属になりました。とても楽しく仕事をさせていただきましたが、第2子の出産と父が倒れたのを機に、やむなく退職いたしました。しかし家庭に入ってみて、子育ての楽しさもわかりましたし、子供会やPTA、ご近所づきあいなどを通して、女性がどう考えどう行動していくかも分かり、それは後に役所に戻ったときに非常に役に立ちました。
 第2子の小学校入学を機に横浜市社会福祉協議会の仕事に就き、その後、企画振興課長になりました。1983年、横浜市が男女共同参画を推進することになったとき、市役所の男性の先輩たちが私を部長に推薦してくださって、横浜市役所に戻りました。定年後は横浜市男女共同参画協会の女性センターで4年間過ごしました。

千野 大変興味深くお伺いしました。制度の変革期というとても得難い時代をお過ごしになったのですね。
 私は兄の薦めでフェリスを受験しました。男子がいないこともあり、非常にのびのびと楽しく、良い6年間を過ごしたと思っております。
 その後、早稲田大学のロシア文学専修に進みました。宮坂さんは「文学を学びたかったけれども、これからは法律のこと」とおっしゃいましたが、宮坂さんたち先輩が道を切り開いたからこそ、私たちは自由に選択できたのでしょうね。しかしいざ入学すると、クラスの過半数は男子学生で地方出身者も多く、伸びやかなフェリスとは何か違った世界のような気がして、少し怖気づいてしまいました。

大塩 その後の就職に関しては、ご著書『女性記者』に次のように記されていますね。「大学4年生になった1966年のある日、私も人並みに職探しをしなければと大学本部の就職課に行くと、掲示板に貼られた産經新聞社の記者募集に『女子も可』とあるのが目に留まった。マスコミ関係の応募先を探していた私には小さなその4文字は一筋の光明に思えた。なぜなら当時、新聞社のほとんどは『男子に限る』だったからである」。今の若い人たちには想像もつかない社会でした。

千野 今だったら「女子も可」も「男子に限る」も差別ですね。雑誌社や出版社も受けましたが、1番早く内定を出してくれた産經新聞に決めたのです。

宮坂 出版社は、割と早くから女性を受け入れていました。

千野 ええ、とくに婦人雑誌などは、女性を必要とする分野がありましたから。
 振り返ると、当時の私は横浜という土地柄やフェリスという環境に恵まれ、日本の外に目が向いていたのですね。そして外の世界を、マスコミの仕事を通して知りたかったのだと思います。
 しかし入社後はやはり男女平等ではありませんでした。新聞記者はまず地方支局で2、3年勤め、その後本社に戻って国会や省庁を取材するようになります。ところが当時は労働基準法で女性記者も深夜労働が禁止でしたから、泊まりが必要な地方支局へは行けない。記者の第1歩から男女で歩みは違ってしまいました。
 東京に取り残されて都内版を半年ほど担当した後、教養部の婦人欄に配属されました。当時の婦人欄は家事やお料理、ファッション、育児、婦人問題などが中心で、私の担当は婦人・少年問題や社会福祉などでした。確かに婦人欄は深夜勤も泊まりもないので新人もベテランも女性記者が多かったのですが、何か狭い世界に閉じ込められたようで納得がいきませんでした。長い記者人生を通して感じることは、性差はもちろんあるけれど、実は個人差が大きいということです。
 2年目に、高度経済成長時代を背景に創刊された『夕刊フジ』の配属になり、そこで16年間勤めた後、ようやく外信部(※)に異動になりました。同期には既に社会部や政治部などでデスク、つまり現場を離れ管理職の道を歩き始めた男性もいました。私も『夕刊フジ』のデスクでしたけれども、外信部では一から出直しです。しかし異動になったその1985年から、国際情勢が大きく変わっていきました。ゴルバチョフ氏がソ連共産党書記長になってソ連は解体へ向かい、東ドイツなどの東欧諸国の民主化も始まり、フィリピンでは黄色い革命、ミャンマーではアウンサンスーチー氏が軍事政権によって幽閉され……。世界の激動とともに、新聞の国際面も注目を集め、外信部の出番となったのです。
 面白いものです。遅れて希望が叶ったゆえに「外信部の時代」に外信部記者になれた。ですから与えられた仕事や運命を受け入れてみて、それを活かすということもあってもいいのではないかと思うのです。別の人生を送っていたら、また別の言い方ができるかもしれませんけれど。
 そして自分のやりたいことは貫く方がよいということと、出発はいつでもできるということを実感いたしました。日本の社会は何歳で入学、何年で卒業、新卒入社と決まっていて、外れることが難しい。そうではなくて、いつでも出発できるということがもう少し広がれば、無用なプレッシャーも減るのでしょうね。大学にしても、学業より就職活動で、非常にもったいない。

宮坂 そうですよね、本当にそう。

千野 その後、外信部長になったのが1993年。女性としては業界初でしたから、週刊誌で取り上げられたりいたしました。

宮坂 私も横浜市役所で部長になったら「横浜市女性部長管理職誕生」なんて全部の新聞が書いたから、1日で有名になってしまったということがありましたよ。そのくらい珍しかったのです。

千野 2005年に論説委員長になった時も、やはり女性初で、業界紙にはずいぶん書かれました。

女性が尊重される社会を目指して

大塩 お2人とも、女性にとってまだまだ制約の大きな社会に生きながら、しかしご自身の望むことを遂げてこられた。そしてそれぞれの働きが女性の新しい地平を拓きました。そのときの経験に即して、日本の女性の将来を展望していただきたいのですが。

千野 私はマニラとシンガポールとニューヨークで特派員をした経験から、先進国と途上国とを肌で知っておりますが、日本の女性は他の先進国にも途上国にもない難しさに置かれていると感じていました。北欧などの先進国では男女平等が名実共に進んでおり、一方、途上国ではキャリアを持つ女性はメイドを雇うという生活体系がある。それぞれ、女性が社会で働くために必要な社会的枠組みが形作られていました。翻って当時の日本にはそのような枠組みはなく、メイドを雇うなんてとんでもない話でした。
 それから40数年経ち、ある程度法体系は整ってきていますが、今度は若い人たち自身が男女雇用機会均等法や育児休職等の法的権利をよく知らない。そういうことを当たり前のこととして学ぶ体系が学校教育では不十分なのではないかと感じています。

宮坂 女性が男性と同じように当たり前に働くために、必要な情報を学ぶことが大切ですね。人権というと、権利を主張するばかりという誤解をされがちです。人権が何かを正しく捉え、また人権や差別に関して敏感になるための教育は常時必要だと感じております。

千野 同感です。人権問題を堅苦しく構えて考えるのではなく、「あなたの人権も大切、私の人権も大切」という自然な理解の上で働ける社会が広がれば、もう少し楽に進めるのではないかと思います。

宮坂 私は退職後、『ユニフェム』という途上国の女性の自立支援をするNGOの立ち上げに参加しました。これは現在は、国連の『UNウィメン』という組織の国内委員会にあたり、『国連ウィメン日本協会』という名前で、全世界の女性を幅広く支援していく団体となっております。

千野 私の友人も入っています。

宮坂 ありがとうございます。特に女性の経済的な問題に非常に力を入れておりまして、『女性のエンパワーメント原則(WEPs)』を作成したりもいたしました。
 このごろ安倍総理が、女性の能力の活用を盛んにおっしゃっていますね。少子高齢化社会の影響もあるでしょうけれども、それだけでなく、女性が社会や企業で積極的に能力を発揮する時代に入っていくのだと思います。

フェリスの教育と女性の可能性

大塩 宮坂さんと千野さんの人生において、フェリスでの6年間はどういった意味をもっているでしょうか。

宮坂 卒業後、特に管理職の会議等では、女性は私1人という状況がほとんどでしたけれど、それでもためらうことなく自分の思うことを伝えることができていました。そうした気質はフェリスにいる間に身につけたと思いますし、他の同級生たちもそう言います。どこに行ってもきちんと自分を表現できるのは、非常に良いことだと思います。

千野 学校の自由な雰囲気がそうさせたのでしょうね。日本の社会では、周囲を窺ったり、「右へ倣え」で遠慮したりするところが少なからずありますが、私自身も含めフェリスの人たちは、みな自分の思ったことをごく自然に語るのです。しかし協調性がないのかと言われると、そういうわけではない。女子校の優れた点を享受しました。

大塩 男性と女性がいれば、異性の存在によっていわゆる男らしさ、女らしさを意識したふるまいをせざるをえない部分がある。そのため、性を超えた1人の人間としての思いや能力が抑え込まれてしまうこともあると思うのです。しかし女性だけの世界で生活すると、人間として本来備わっている能力が比較的簡単に表に出てきます。そこで見出した能力を社会の中で自覚的に活かすことができるのではないか。私は女子だけの教育の主要な意味をそのように考えています。

宮坂 フェリスの教育には、キリスト教の考え方もあるでしょうね。私はフェリスの教育理念、For Othersという言葉が大好きで、折に触れ思い出すのです。自分があって他者があって。

千野 在学中に「学校の教育理念はFor Othersである」と正面きって学ぶようなことはないのですよね。しかし気がついてみると、たしかに自分はFor Othersの中にいたと振り返ることができます。

大塩 これまでの宮坂さんと千野さんのお話を振り返ると、女性に対して歴史的・社会的に与えられた制約条件を、女性が振り切ったときに、女性は新しい地平を見出したように思えます。このような観点から、最後に、今後の戦略的な視点を示唆していただきたいのですが。

千野 社会の潮流を見極め、さらにその潮流を自らの手で引き寄せることが必要だと思います。私は地方支局に行けなかった時、これでは記者として差がついてしまうと感じ、自発的に英語の勉強をいたしました。自分の望む部署へ行くための準備をし、外信部への異動を果たしたのです。
 また、歴史や来歴、すなわち過去を知ることも重要です。過去を知ることは今を知ることに役立ち、未来を知るための手掛かりになります。私の場合、新聞記者としてフェリスの過去と向き合う機会がありました。その中で創設者のメアリー・E・キダーの手紙を集めた本、『キダー書簡集』を読み、これは学校の副教材にしても良いぐらいに素晴らしい本だと感じたのです。ですから在学中にフェリスの歴史をもっとよく知る機会があれば、さらに充実するのではないかと思います。私ができなかったことをぜひ、後輩の皆さんにはやってもらいたい。もちろん学校の歴史に限らず、自分自身のことでも家族のことでも社会、国や世界のことでも良いのです。先人のものを受け継いでいくことで自分自身の今を知り、そこから未来への戦略を自分なりに立てていってほしいと思います。

宮坂 私が感じておりますのは、女性たちが社会的にも経済的にも自立し、同時に社会制度も整っていくという変化の中、子どもたちをどういうふうに育てるかをよく考えなければならないということです。その部分が欠落すると、望ましい社会になるはずはありません。家族のあり方、性や愛への考え方も変わってきていますしね。男性も女性も一緒に考えていってほしいと思っています。
 また、私の時代と千野さんの時代とでも違いますように、その時代に生きる自分の人生を、いかに自分で考えていくか。そのためにまずは自分を中心に、自分が何なのかを考える必要があるでしょうね。

千野 年代が変わると、悩みも変わりますからね。現代では社会の枠組みは整っていますけれど、今度は自由であることの難しさがある。いくらいろいろな可能性があっても、結局選択できる道は1つなのです。そうした意味で、今の若い人には、私たちとは逆の難しさがありますよね。

大塩 人間として当たり前のふるまいをしながら、女性の可能性を広げてきたご経験を伺うことができました。その場合、お2人にとっては、「フェリスの自由」が特別の意味を持っていたように思われますが、その「フェリスの自由」を根底において支えているのは、キリスト教の信仰にあることを申し添えて鼎談を終わりたいと思います。

学院長 大塩 武(おおしお たけし)

学院長 大塩 武(おおしお たけし)
1943年生まれ。早稲田大学商学部卒業、早稲田大学大学院商学研究科博士課程最終単位取得。商学博士(早稲田大学)。明治学院大学では、情報センター長、教務部長、入試センター長、経済学部長、学長を歴任。著書に『日窒コンツェルンの研究』(日本経済評論社)、その他多数。

国連ウィメン日本協会アドヴァイザー 宮坂 洋子(みやさか ようこ)

国連ウィメン日本協会アドヴァイザー
宮坂 洋子
(みやさか ようこ)
フェリス女学院高等部、早稲田大学法学部卒業。早稲田大学法学研究科修士課程修了。横浜市役所に就職、横浜市市民局理事兼女性計画推進室長(局長職)等を経て、財団法人横浜市男女共同参画推進協会常務理事を歴任、現在国連ウィメン日本協会アドヴァイザー。

産經新聞客員論説委員 千野 境子(ちの けいこ)

産經新聞客員論説委員
千野 境子
(ちの けいこ)
フェリス女学院高等部、早稲田大学第一文学部卒業。産經新聞東京本社入社、アメリカ留学後、ニューヨーク支局長を経て全国紙で女性初の外信部長と論説委員長を務める。ボーン上田記念国際記者賞受賞。現在は客員論説委員。『インドネシア9・30クーデターの謎を解く』(草思社)など著書多数。

※ 海外支局の特派員や通信社から送られてくる国外のニュースを扱う部署。

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