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第6回 フェリス女学院の教育の核心~150年史の編纂にあたって~

 来る2020年の創立150周年に向けて、フェリス女学院は150年史の編纂を開始しました。今回は編纂実務委員長を務める鈴木美南子フェリス女学院大学名誉教授、そして編纂実務委員であり、執筆も担当される中島耕二明治学院大学客員教授をお迎えし、大塩武学院長とともに、150年の歩みを支えたフェリス女学院の教育の核心を語っていただきました。(2013年12月)

大塩 フェリス女学院の創立150周年にあたる2020年に東京オリンピックの開催が重なってしまいました。良いのか悪いのかわかりませんが(笑)。それはさておき、フェリス女学院の150年を叙述するにあたって、歴史全体を貫く精神として、「キリスト教の信仰に基づく女子教育」、そして「アメリカ改革教会の支援」の2点を据えていただきたいと鈴木美南子先生にお願いしました。現在フェリス女学院の日常生活においては、改革教会が意識されることはほとんどありません。しかし戦前におけるその存在感は物心両面において圧倒的であり、おそらく改革教会の支援がなければ現在のフェリス女学院はありえなかったのではないかと思われます。
 本日はフェリス女学院の歴史に造詣が深い鈴木美南子先生、それから「日本の近代化と宣教師」という問題を、政治史あるいは外交史という座標軸で論じ、優れた業績を多数発表されている中島耕二先生のお2人に、フェリス女学院の150年をお話しいただきます。
 日本が開国すると、アメリカのプロテスタントの諸教会はこぞって日本に宣教師を派遣しました。とりわけ長老教会と改革教会(※1)の動きは迅速であったように見受けられますが、この動向についてまずは中島先生、お話しいただけますか。

中島 世界史的背景からお話ししますと、18世紀末にイギリスで東洋伝道が始まり、やがて中国に向けて一人の宣教師が出発します。その経由地となったアメリカでは丁度第2次リバイバル(信仰復興)が起こり、海外伝道熱が非常に高まっていた。1810年にはアメリカで最初の海外伝道組織、アメリカン・ボードが各派合同で設立され、そこが東洋伝道を進めることになります。その後、アメリカの経済が進展すると、各派が単独で宣教師を海外伝道に派遣できる状況になり、その中でいち早く東洋伝道を目指したのが長老教会や改革教会だったのです。
 当時日本はまだ鎖国していたのですが、開国のニュースを聞くと、各派の海外伝道局は日本に注目します。そして1858年、日米修好通商条約が締結され、宣教師の来日が可能となると、翌年、聖公会、長老教会および改革教会から初代宣教師が派遣されてきます。

大塩 そうした日米関係のなかで、1859年、長老教会のジェームス・C・ヘボンが来日します。ヘボン夫妻が主宰したヘボン塾の教育から、改革教会のメアリー・E・キダーが女子教育を独立させてフェリス女学院の創設に繋がりますが、当時長老教会と改革教会はどういった関係にあったのでしょう。

鈴木 さきほど中島先生がおっしゃった初期の宣教団体、特に長老教会と改革教会は、教派は異なりながらも協力して活動していたのです。女子教育に限らず、いろいろな活動を一緒にやっておりますね。

大塩 キダーのパートナーとなる宣教師エドワード・R・ミラーは長老教会ですが、フェリスの歴史における両者の関係には、その後特に目立ったものはないのですか?

鈴木 フェリスにおいては、その後は改革教会だけで運営されてきまして、ミラーはキダーのサポートとして改革教会に専念してくださったようです。

中島 改革教会と長老教会は同じ教会政治の組織ですから、当然一緒に活動しようという気にはなったでしょう。しかし、教育も一緒にとまではならず、改革教会、長老教会でそれぞれ女子教育機関を持っていました。

大塩 なぜこの2つの教会が「女子教育」に注力したのでしょう。

鈴木 それは当時の日本社会、特に女性が劣悪な状態にあったからだと思います。開国初期に来日した宣教師のS・R・ブラウンが10年間日本にいて、日本の求めているのが女子教育だと感じていた。一方キダーはアメリカで女学校の教員をしていて、日本に来たいと考えていたこと、ヘボン夫人はヘボン塾の教育に専念するのが難しくなっていたことなどの事情が合致して、キダーがヘボン塾の教育に携わるようになっていったのです。

フェリス女学院草創期と宣教師

大塩 ヘボン塾からフェリスが分かれていく過程は興味深いですね。

中島 キダーはかねてより女子教育を希望していましたので、引き受けたヘボン塾の子どもたちのうち女子だけを集め、当時の神奈川権令(副知事)であった大江卓の取り計らいで野毛山に校舎を確保し、以後、水を得た魚のように女子教育に邁進していきます。そしてアメリカ流の教育を日本人女性に押し付けるということはせず、裁縫や料理といった、普遍的に女性に必要な教育を施していました。

鈴木 そこが立派ですね。キダーはキリスト教伝道を第一の使命としていましたが、他の学問は英語で教えても、キリスト教は必ず教え子たちの言語である日本語で語らねばならないと考えて、熱心に日本語で授業をしておりました。
 寄宿学校では日本式の生活を取り入れ、生徒たちが日本社会から切り離されることのないよう計らいながら、一方では近代化を願った。例えば、当時日本では男女の結婚が親の意思で非常に早くから設定されていました。だから男女が自分たちの意思で結婚するということをぜひ見せたいと、ミラーとの結婚式に教え子を招いたりしています。

大塩 キダーは10年足らずでフェリスから離れます。キダーには離れないという選択肢もあったと思うのですが。

鈴木 お辞めになった理由には、同僚との齟齬もあったでしょうが、夫であるミラーの伝道という本来の仕事に協力したいと思ったのではないでしょうか。

中島 キダーはさばさばした、切り替えの早い方だったようですね。もう礎は作ったので、後は第2代校長となるユージン・S・ブースに任せる、自分はミラーの伝道を一緒にやる、という切り替えをされたのではないでしょうか。
 彼女の気質はミラーとの結婚にも表れています。当時9歳も年下の男性と結婚するのは一般的ではないですから、やはり1つの踏ん切りがあったはずです。非常に勇気を持った女性だったのでしょう。

鈴木 そうですね。キャリアを積んでいるとはいえ30歳を越えてから物情騒然とした日本に来て、多くの困難を払いのけながら、本国と巧みにやりとりをし、地元の人々にも助けを求め、学校を1つ設立する。その手腕と、実現しようという強い気持ちは立派なものです。現代のフェリス生にとっても十分モデルになり得る女性だと思います。

中島 キダーの活動に共感した大江卓やミラーらによる財政支援も、決して小さいものではなかった。周囲を動かす意志の強さを持った女性だったのでしょう。

大塩 夫のミラーについてはいかがでしょう?

中島 ミラーは大変な秀才で、非常に穏やかで包容力のある男性でありました。キダーとは仲睦まじい結婚生活を送るのですが、彼女の一種のわがままも受け止められる懐の広い方だったと思います。

鈴木 私もミラーは立派な人だったと思います。キダーを非常に高く評価して彼女へのサポートを惜しみませんでしたし、亡くなったときに遺した莫大な資産はほとんどが日本のキリスト教会のために寄付されている。しかし出しゃばるところがありませんから、功績が記録に残りづらく、語られることも少ないのです。しかし私はフェリスの歴史の中でも、広くキリスト教史においても、ミラーはもっと語られるべきだと思っております。
 また、キダーの次に校長を務めたブースも、もっと評価されるべきでしょう。41年もの歳月をフェリスの発展に献げ、現在に続く礎を築かれたのですから。

大塩 彼らキダーやブースらが舵をとっていた開校当初、おそらくフェリスは改革教会の伝道の場であったのではないかと思われますが、実際にはどうだったのでしょう?

鈴木 教育内容はもちろん礼拝から始まるもので、ちゃんと聖書の時間もありました。日曜朝は共立学園の生徒と連れ立って横浜海岸教会まで歩いて行き、午後は校内で日曜学校がある。学内に限らず、生徒たちは先生の指導で横浜市内にいくつも日曜学校を組織し運営していました。また、一時期は聖書科や神学部が、専門職としてバイブルウーマンを養成していましたので、そういう人が巣立っては各地で伝道活動に励んでいたようです。

「文部省訓令第一二号」をめぐるフェリスの戦略的意思決定

大塩 中島先生は、150年史でどの時期をご担当なさるのですか?

中島 1899(明治32)年に発令された、文部省訓令第12号(※2)以降を担当します。

大塩 歴史家としては非常に興味深い時期ですね。訓令第12号は「宗教教育禁止令」との異名もあり、フェリスへの影響も大きかったのではありませんか。

中島 そうですね。宗教教育を行う学校は文部省(現・文部科学省)の公認を失効するということで、このとき、キリスト教教育をやめてしまう学校、文部省の認定を返上してキリスト教教育を続ける学校、認定を保持しながら学校ではキリスト教教育を行わず、寄宿舎等で行う学校と、さまざまな対応がありました。
 これまでの研究では、女学校は男子学校に比べダメージが少なかったと言われてきましたが、実際にはかなり影響を受けたようです。ですからフェリスのキリスト教教育がそれ以降どういうふうに変わったのか、興味深いところですね。

鈴木 女学校の場合、完全にキリスト教をやめるという選択肢は考えなかったと思いますが、相当悩んだのは確かです。キリスト教教育をやめてしまえば教会からの援助はなくなりますから、自力で運営するしかなくなってしまう。

大塩 フェリスにおいては、当時校長であったブースが、「学校としての特典を得るために、キリスト教の信仰を放棄して、フェリスを高等女学校にするようなことはしない。高等女学校にしておいて内証で聖書を教えるようなことは良心が宥さない。高等女学校の道を選ばないためにフェリスが滅亡しても宜しい」と言い切りました。校長ブースの断固たる決意を垣間見ることができます。

中島 その後、政府とキリスト教界との間で妥協が成立していく中で、なしくずし的にキリスト教教育が可能になりますが、一時は本当に深刻な影響を与えた問題です。

大塩 訓令第12号への対応に関わるフェリスの意思決定は、日本のキリスト教学校史においても際立って戦略的です。キリスト教の信仰を守るために、高等女学校の道を選択しないで、各種学校の地位に留まるというブースの意思決定を経営面で支えるため、英語教師の全国的な不足という状況の下で、教頭岩佐琢蔵は高等女学校(12歳から16歳)の卒業生を対象とする英語師範科(16歳から19歳)を、フェリスの本科(13歳から18歳)に並行する形で、新たに創設しました。すると、どうでしょう、これにより「フェリスは高等女学校以上の学校である」という社会的評価が得られ、フェリスの名声は一挙に高まったのです。

鈴木 当時の文部省の規定では、高等女学校卒でなければ英語教員の資格を取得できませんでしたから、学外の高等女学校卒業生のために英語師範科を設けることでフェリスからも英語教員の輩出を可能にするということですね。
 世相的にも、急激な社会の西洋化に伴って高いレベルの高等教育が求められていましたから、英語師範科はそれに応えられる機関として注目されました。このようにフェリスは女学校のなかでは非常に早い段階で高等教育に取り組んでいて、1965(昭和40)年に設立された大学はいわばその復活であると私は感じています。

中島 そもそも開国初期に派遣された改革教会の宣教師ブラウンは、エルマイラ女子大学というアメリカで最初の公認女子大を創ったメンバーの一人なのです。ですから改革教会のキダーが日本で女子教育に着手した際には、当然高等教育も見据えていたでしょう。自分の教派の最高教育機関が欲しいという野望を、宣教師もフェリスの卒業生も、教師たちも抱いていて、それが戦後に結集したというのが私の見解です。

大塩 最後に、フェリスの教育の特徴を語っていただいて、この鼎談を結びます。学外者の立場から、まず中島先生にお願いします。

中島 「卒業生を母校の教師にする」という点はフェリスの特徴と言ってよいでしょうね。優秀な人材を育てて母校の教壇に立たせ、また優秀な後輩を育成させるという繋がりをしっかりと考えている。例えば『小公子』の翻訳で知られる若松賤子はまさにそういう道を歩んだわけですが、彼女は高等科の第1回卒業生ですから、かなり早い段階からフェリスが後継者養成に力を入れていたのが見受けられます。女子教育機関ではなかなか難しいことですが、私立学校の場合は特に、同窓生が母校で指導して伝統を繋ぐことが大切で、それがフェリスではできていたのだと思います。

鈴木 また、そのシステムが面白いですね。優秀な学生に奨学金で教育を受けさせ、高学年になったらアシスタントとして少しずつ教育に携わらせる。学生は支援してもらっていますから、そこを出たら教員、伝道者にならざるを得ない。
 同時に、全国に教員・伝道者を送り出してもいる。それは言ってみれば、数年間はそこで仕事をしなければならないというオブリゲーションであるわけです。こうした取り組みの甲斐あって、文部省からも「教員養成に実績のある学校」という評価が与えられていました。

大塩 歴史的な広がりの中で論ずると、フェリス女学院の教育が個性豊かな改革教会の宣教師によって育まれてきたことが理解できます。150年史の完成が楽しみに待たれます。お2人をはじめ執筆者の皆様のお力添えをお願い申し上げます。

学院長 大塩 武(おおしお たけし)

学院長 大塩 武(おおしお たけし)
1943年生まれ。早稲田大学商学部卒業、早稲田大学大学院商学研究科博士課程最終単位取得。商学博士(早稲田大学)。明治学院大学では、情報センター長、教務部長、入試センター長、経済学部長、学長を歴任。著書に『日窒コンツェルンの研究』(日本経済評論社)、その他多数。

大学名誉教授 鈴木 美南子(すずき みなこ)

大学名誉教授
鈴木 美南子
(すずき みなこ)
1942年生まれ。国際基督教大学卒業、同大学院教育学研究科博士課程満期退学。思想史専攻。1972年フェリス女学院大学に就任し助教授、教授となる。社会思想史・教育思想史などを担当。2010年5月名誉教授。1976年より資料室委員。82年『フェリス女学院110年小史』執筆。他に、近代日本の宗教と教育、ジョン・ロックに関する研究など。

明治学院大学教養教育センター客員教授 中島 耕二(なかじま こうじ)

明治学院大学教養教育センター客員教授 
中島 耕二
(なかじま こうじ)
1947年生まれ。明治学院大学法学部卒業、東北大学大学院文学研究科博士課程後期修了。博士(文学)。近代日本におけるキリスト教と政治・外交の関わり、来日宣教師等を研究。著書に『近代日本の外交と宣教師』(単著、吉川弘文館)、『長老・改革教会来日宣教師事典』(共著、新教出版社)他。

※1 鼎談中の「長老教会」はThe Presbyterian Church in the United States of America を、「改革教会」はReformed Church in America を指す。それぞれについて、「長老派教会」、「改革派教会」という呼称もあるが、この特集では、鼎談者が用いた呼称をそのまま表記した。

※2 1899(明治32)年8月3日に発令された、宗教教育を禁じる法令。宗教教育を継続する場合は「各種学校」とみなされ、それによって上級学校への進学、徴兵猶予といった文部省認定校の特典を剥奪された。

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